占術・三元派北斗流推命術の継承者として、世の中で見聞きし出会った事を、日々綴って参ります。


by 魚のおじさん
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「アーカイブ」・・・瓦片への思い ②

初めまして

 土師祈昌の娘の実紗です。

 父が昨年の10月に脳血栓で倒れた為に、このブログを中断してから随分になり、多くの読者の方から心配するメール等を戴いて居りましたが、返信する事も叶わず、申し訳ありませんでした。

 幸いにも、父の症状は思ったほど重くなく、若干の後遺症は在るものの、自分で日常生活を送れる程に回復し、現在も通院しながらリハビリに励んで居ります。

 今回、父の依頼を受けて、昨年の8月1日から8月6日に掲載した記事を「アーカイブ」として掲載させて戴きます。



 先の戦大から、70年の時を経て、『戦後70年』『被爆から70年』と、言う言葉を、毎日の様に耳に致します。


 広島に生まれ育ち、今なお、広島で暮らす私には、他の方々とは別の、感慨を抱いて居るのかも知れません。



 8月が訪れ、原爆に纏わる過去の一連の記事を、「アーカイブ」として掲載させて戴きます。



【2015年1月25日 掲載記事】【7月20日・予約投稿】

  夜の元安川


 
 こうして、実家までの15㎞程の道のりを、意気揚々と帰ったのでした。


 実は、拾い集めた瓦片の一つを、記念にしようと、持ち帰って居ました。

 私が、その瓦片を、納める為に、刷毛で泥を落として居りますと、父が、

 「何ぃしよるんなら・・・?」と、聞きましたので、それまでの経緯を話しました。

「わりゃぁ(お前は)、それが、何か分かっちょるんかぁ?」と、非常に不機嫌な、顔と口調で言いましたので、


 
「ほいじゃけぇ、原爆ん時に吹き飛ばされた瓦なんよ・・・平和公園のはたり(傍)の、元安川の河原で拾ぉたんじゃ・・・平和活動の為に使うんじゃ。」と、言いますと、


「それが、何か、分かっちょるんか言ぅて聞きよるんじゃぁ!・・・わりゃぁ、何にも分かっちょらんのぉ!・・・その瓦の上やら下やらで、人が殺されたんじゃろぉが!・・・そりゃぁ、墓石みたいなモンじゃろぉがッ!」


「そがいなモンを家ぇ拾ぉて帰りゃぁがって!・・・何が平和運動ならッ!・・・死んだ人を粗末にする様なモンは、平和運動やなんかじゃぁ在りぁぁせんよぉ!」


「すぐに、在った所へ返してこい!・・・分かったかッ!」
と、蹴り飛ばされるのではないかと感じたぐらい、物凄い剣幕で怒鳴られました。


 

 私は、呆気にとられて声も出せずに頷き、すぐに支度をすると、自転車で平和公園へ向かいました。

 自転車を漕ぎながら、色々な事を考えて居りました。

 父の言う事は、尤もだと思いました。

 無学で、短気な、広島の漁師でしたが、勤勉で、人の道理を弁えた、誰からも慕われる人でした。

 厳しい言葉で怒鳴られた事よりも、原子爆弾によって兄を奪われ、その直後に、
阿鼻地獄 と称された、あの惨劇の地に立ち、あの惨劇を目の当たりにした人間の、その思いに圧倒されて居りました。

 浮かれていた自分の浅墓さと愚かさが、悔やまれて成りませんでした。


 夕暮れの街を自転車で走って、
元安橋 の袂に着いた頃には、すっかり陽が暮れていました。

 橋を渡って公園に辿り着き、左に折れて、瓦片を拾う為に河原に下りたガンギ(桟橋や海へ下りる石の階段)の所へ行きましたが、既に潮が満ちていて、河原に下りる事は出来ませんでした。

 申し訳無いと思いながら、ポケットからハンカチに包んだ瓦片を取り出して、手の平に取ると、一度、額に当てがって思いを込めた後、河原に向かって高く放り投げました。

 瓦片は、川面の中央に落ちて、小さな同心円を描きました。

 それを暫く見つめながら、皆で瓦片を拾い集めていた時の事や、父に怒鳴られた事など思い返して居りましたが、蚊に刺されるのが嫌だったので、河原に向かって手を合わせ、御題目を唱えてから、帰路につきました。




 

 現在の海田湾の夜景




 国道31号線を呉方面に向かって暫く行くと、海田湾 越しに、広島の街灯りが見えました。

 今は、殆んどが埋め立てられて、
商業施設 病院 や工場群が立ち並んで、面影さえ在りませんが、当時は、チヌ(黒鯛) が沢山獲れる、豊饒の海でした。


 その景色を、心細い気持ちで見詰めながら、家に帰りました。


 流石に、へとへとに疲れて、冴えない気持ちで、家に入ると、父が、

 「遅かったのぉ、しんどかったじゃろぉがい・・・腹が減っちょろぉが・・・飯ぃ食えや。」と、コップ酒を飲みながら、言いました。

 私は、また何か言われると思って居りましたので、父の、いつに無く柔らかい口調を、意外に感じながらも、ほっと致しました。


 夕食を食べ終わった後に、焙じ茶を飲みながらテレビを観ていると、父が、


 「お父さんはのぉ、ワレが色々と頑張っちょるんは、ぶち嬉しぃんじゃ・・・じゃがのぉ、自分は、えぇ事をしよる思ぉてする事でも、他の人にとっちゃぁ迷惑じゃったり、心ぉ傷付けられたりする事も在るんよ。・・・じゃけぇ、何かしょぉ思う時ゃぁ、そがいな事まで考えてからせにゃぁ、結局は、ワレが冴えん目ぇ見る様になるんでぇ。・・・ほれに、死んだ人ぁモノを言えんけぇのぉ・・・何が正しゅうて、何が違ぉちょるかは、分かり難いんじゃが、それぇ分かる様に成る為に学校へ行きよんじゃろぉがい・・・しっかり勉強せぇよ。」と、染み染みと言いました。

 私は、何も語れず、ただ頷いて、父の話を聞いて居りました。


 その後、風呂に入って、湯船に浸かって居りますと、色々な思いが込み上げて来て、何故か涙が溢れて止まらず、何度も何度も、顔を洗い流して居りました。・・・続く・・・
アジアの片隅より


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広島ブログ


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by asianokatasumiyor | 2016-08-05 08:15 | 反核・平和