占術・三元派北斗流推命術の継承者として、世の中で見聞きし出会った事を、日々綴って参ります。


by 魚のおじさん
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カテゴリ:反核・平和( 5 )

初めまして

 土師祈昌の娘の実紗です。

 父が昨年の10月に脳血栓で倒れた為に、このブログを中断してから随分になり、多くの読者の方から心配するメール等を戴いて居りましたが、返信する事も叶わず、申し訳ありませんでした。

 幸いにも、父の症状は思ったほど重くなく、若干の後遺症は在るものの、自分で日常生活を送れる程に回復し、現在も通院しながらリハビリに励んで居ります。

 今回、父の依頼を受けて、昨年の8月1日から8月6日に掲載した記事を「アーカイブ」として掲載させて戴きます。



 先の戦大から、70年の時を経て、『戦後70年』『被爆から70年』と、言う言葉を、毎日の様に耳に致します。


 広島に生まれ育ち、今なお、広島で暮らす私には、他の方々とは別の、感慨を抱いて居るのかも知れません。



 8月が訪れ、原爆に纏わる過去の一連の記事を、「アーカイブ」として掲載させて戴きます。



【2015年1月26日 掲載記事】【7月20日・予約投稿】

 灯篭流しの光景




 もう、40年近くも前の出来事なので、正確な日にちは、定かでは在りませんが、大学教授による、瓦片の鑑定結果が出たのは、初秋の事だったと思います。


 社会科学研究同好会(通称・社研)の、放課後のミーティングの時に、大亀先生から報告が在りました。




 先輩達は、一様に喜んで居ましたが、私は心の中では、複雑な思いが渦巻いていて、心から喜ぶ事が出来ませんでした。



 その頃の私は、先生や先輩達の活動に、共に参加して行く事が、微力で在っても、「恒久平和」に繋がる活動だと、純粋に考えて居ましたが、瓦片の件で父に叱られて以来、社会全体の情勢や、周囲の意識の中での自分と言う存在を、客観的に、観たり考えたりする様に成りました。


 そもそも父は、私が瓦片を持ち帰った事を叱ったのでは有りません。


 悲劇の証とも言える瓦片を、宝物でも発見したかの様に、喜び燥いで居た私に、激怒したのでした。



 色々と考えて居る内に、活動に疑問を持ったと言うのでは無く、何が正しく、何が違うのかが分からず、どうして良いのかが、全く分からなく成って居ました。


 私が、「分からなくなった」、最大の要因は、原水協 原水禁 の存在でした。

 
 昭和30年(1955年)に結成された
、原水爆禁止日本協議会は、意見の対立により、昭和40年(1965年)に、原水爆禁止日本協議会 原水爆禁止日本国民会議 の、2つの団体に分裂しました。



 その経緯については、長く成りますし、私の表現力では、誤解を招いて炎上し兼ねませんので、此処を御読みください。



  此処原水禁は何故二つに分かれているのですか?


 原水協の中の、主流派であった共産党 系の会員と、反主流派とされた社会党 系の会員との、党の意向に由る分裂でした。


 広島の、反核・平和運動を牽引する、この二つの大きな団体は、少なからず、高校生の活動に影響を及ぼしており、当時の私の考えでは、原水禁の方に、幾らか部が在ると観て居りましたが、私が参加していた活動の周囲は、原水協に属する先生方が大半を占めて居たのでした。




 当時の高校生の活動は、安田女子中学高等学校 広島県立広島商業高校 山陽高等学校広島県立広島観音高等学校 広島電機大学付属高等学校 の、社会科学研究部や同和問題研究部が中心となって、活動して居ましたが、顧問の先生方は、原水協に属して居られた様で、その影響を大きく受ける形と成って居りました。


 私は、そんな思いを誰にも相談出来ないまま、それでも一生懸命に活動に参加し続けて居りました。


 翌年(相和53年・1978年)の2月、広島高校生平和ゼミナール が設立され、それにも携わって居りました。


「政治や、イデオロギー に関係無く、目指す目的が一番大切だ。」と、考えて居たからです。


 私が、伯父の遺品を見せて頂く為に、父の実家を訪ねたのは、その頃の事でした。



 伯父の日記を読んで、触発された私は、高校に入学した頃から読み始めた、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア (キング牧師)の伝記や著書や、広島と縁が深く、中学生の頃から憧れていた、エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ (チェ・ゲバラ)の著書を読み進め、比較したり、色々と考えを深めていく内に、どうやら、間違いとは言い切れなくとも、今、遣っている活動は、偏っているように思えました。



 しかし、何を為すべきか、どう進むべきかは、皆目見当が付かないで、周りの勢いに流されながら、日々を過ごして居ました。



 奇しくも、伯父が亡くなった、16歳でしたが、伯父の様に明晰な頭脳も無く、幼少の頃から習っていた柔術や、師事していた占術や、ドライブインでのアルバイト等、遣りたい事が沢山在って、学ぶ事に身が入らず、『伯父さんだったら、どうされただろうか?』と、いつも、想像して居りました。


 そんな風に過ごして居た2年生の春、ある先生から『生徒会の活動に、お前の力を貸して欲しい。』と、声を掛けられました。



 当時、私の学校 『不良校』と目されて居り、小規模な女子商業科と、普通科に、数名の女子生徒が居りましたが、ほぼ、男子校で、当時は、近隣に在りました、広島朝鮮中高級学校 の生徒との対立なども在り、一部、荒れた生徒も居りましたが、進学校でないぶん、伸び伸びとした気風に溢れて居りました。


 「平和運動も、えぇんじゃが、自分が居る学校を良ぉして行く事から始めて行くんも、平和運動に繋がるんじゃないか。」との、先生の言葉に便乗する形で、生徒会の活動に加えて頂きました。



 生徒会の活動に参加してからは、社研の活動から離れ、私なりに、一生懸命頑張りました。


 
 大した成果は上げられませんでしたし、周りの方々に迷惑ばかり掛けて仕舞いましたが、頑張った分だけ、微細ながらも成果が目に見え、遣り甲斐を感じる事が出来ました。



 原爆犠牲ヒロシマの碑


 
 その後、我が校の社会科学研究同好会は、クラブへと昇格し、広島高校生平和ゼミナールの活動 の、中心的な存在と成って行き、私等が拾った瓦片は、「被爆瓦」 と呼ばれる様に成りました。



 昭和55年(1980年)に、私は、京都の大学に進学する為に、広島を離れました。


 
 2回生の時の夏休みに、帰省した私は、久し振りに平和公園を訪ねました折、河原に大勢の人達が下りている光景に出合いました。



 すぐに、原爆瓦を拾っているのだと解りました。


 ワイワイ、ガヤガヤと賑やかに作業している様子を観て、あの日の自分を見ている様で、とても切なく成りました。


 それと同時に、何か、遣り残して仕舞ったモノが在った事にも気付きました。



 先日、私にコメントを下さった、広島の高校生の皆さんへ・・・人生には、後から気付く事が多いのです。



 「もし、あの時、こうしていたら・・・。」と、思う事ばかりです。



 だからこそ「あの時、あれだけ悩み抜いて選んだ結果だから・・・。」


 「あの時、あれだけ努力して頑張った結果だから・・・。」 と、悔いを残さずに、前向きに受け止められる様に、今、出来る限り悩んで考え抜き、出来る限りの努力をなさってください。


 これが、反面教師として、彼方達に未来を託す、愚者である私の願い です。・・・アジアの片隅より


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by asianokatasumiyor | 2016-08-06 08:15 | 反核・平和

初めまして

 土師祈昌の娘の実紗です。

 父が昨年の10月に脳血栓で倒れた為に、このブログを中断してから随分になり、多くの読者の方から心配するメール等を戴いて居りましたが、返信する事も叶わず、申し訳ありませんでした。

 幸いにも、父の症状は思ったほど重くなく、若干の後遺症は在るものの、自分で日常生活を送れる程に回復し、現在も通院しながらリハビリに励んで居ります。

 今回、父の依頼を受けて、昨年の8月1日から8月6日に掲載した記事を「アーカイブ」として掲載させて戴きます。


 先の戦大から、70年の時を経て、『戦後70年』『被爆から70年』と、言う言葉を、毎日の様に耳に致します。


 広島に生まれ育ち、今なお、広島で暮らす私には、他の方々とは別の、感慨を抱いて居るのかも知れません。



 8月が訪れ、原爆に纏わる過去の一連の記事を、「アーカイブ」として掲載させて戴きます。



【2015年1月24日 掲載記事】【7月20日・予約投稿】

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  元安川の川辺


 今日は、私の体重の半分を支えて呉れて居ります、近所の、お好み焼き屋さんの記事を書くと、お好み焼き屋の、お姉さんに言って居たのですが、、このブログの、数少ない一般読者の方々から、先日の記事について、沢山のコメントを頂きました。

 私の如き愚者に、コメントをくださり、この場を借りて、お礼申し上げます。

 賛同や応援、批判される方も御座いましたが、私は、自分の思いを、簡潔な文章で表現する能力が無い為、いったん書き始めると、文章が長くなりますので、未だ、全ての方に返信出来て居りませんが、出来る限り早く返信致しますので御理解、並びに御了承ください。

 その中に、数人の広島の高校生の方から、私が高校生の頃、携わっていた 「高校生平和ゼミナール」 の活動や発足当時の状況等について、質問されましたので、此れについては返信はせず、記事として書かせて頂きます。



 私が、高校1年生の時 (昭和52年・1977) の夏、副担任だった大亀先生 ( 理科の教諭で、大学を出たばかりの新任教師で、年齢も近く、気さくで情の深い、良き兄の様な存在でした ) の肝煎で、戦時中に、戦意高揚の目的で制作された映画 「斗う兵隊」を観た数人の生徒が集まって、社会科学研究同好会を発足しました。


 会では、最初の取り組みとして、『 自分達の街に残っている、原子爆弾の痕跡を探そう 』と言う事で、「原爆の影探し」を致しました。

 「原爆の影」 とは、原子爆弾が炸裂した瞬間に生じる、強力なγ線によって、人や建物の影が、壁や石に、レントゲン写真の様に焼き付けられた跡の事です。

 その影を見付け、それが現存物同士の影ならば、その両端を結んだ直線の延長線上に爆心地 が在ると考えられますので、この影を、二ヶ所発見出来れば、その延長線上の交点が爆心地 になると言う訳です。

 自分達の手で、もう一度、確かめてみたかったのでした。

 被爆直後には、無数に在った「原爆の影」でしたが、30年以上経過して居りましたし、ある程度の資料は在ったものの、特化した資料は無い為、市内の「それらしき場所」を、皆で手分けして、自転車で訪ね回りながら、「それらしき影」は見付けたものの、正確に方向を示す影を発見する事は出来ませんでした。

 そして、次の取り組みとして「開発されていない川になら、何か残っているのではないか」と考え、日曜日の干潮の時間に、大亀先生や、会のメンバーが、長靴履きに、軍手にスコップを抱えた姿で集まって、平和公園 の東側の、潮が引いた、元安川の河原に下りて行ったのでした。



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潮が引いた元安川の河原



 最初の内は、何か出て来ないかと、てんでに何処彼処をスコップで掘り返して居りました。

 私が、アサリほどの大きさが在る、シジミがゴロゴロ出て来るのに驚いて、

 「大亀先生、此れ、食えるかねぇ?」と聞きましたら、先生が、

 「食わん方ぉがえかろぉ、腹痛ぁ起こすでぇ。」と、笑いながら仰いました。


 現在は、元安川も含む、太田川水系 は、上流までも、完全下水体制が整って居りますが、当時は未だ不完全で、今ほど水質が良く在りませんでした。

 太田川水系の下流にあたる元安川は、汽水域で、干満の差が激しく、発掘作業の時間が限られますので、私達は忙しく作業を進めました。


 その内に、先輩 ( 1年生は私一人でした ) の一人が、河原に転がっていた瓦片の異常に気付き、先生に見せますと、瓦片の表面に在る無数の水泡の様な凸凹が、水などに腐食されて出来る浸食では在り得ない事から、原子爆弾の影響に由るモノと判断しました。

 それで、皆が一斉に、河原に無数に散乱していた瓦片の中から、原爆の影響を受けたと思われる特徴の顕著な物を探し出しました。

 皆、興奮して歓声を上げながら、此処でも、あそこでも見つかり、曲がったガラス瓶なども見つかりました。

 一生懸命に、時が経つのも忘れ、大汗を掻きながら、拾い集めました。


 やがて潮が満ちて参りましたので、作業を断念し、平和公園の川岸に上がったのでした。

 皆、興奮と達成感で、瞳が輝いて居りました。


 拾い集めた瓦片等は、大亀先生が持ち帰られて、知人の大学教授に鑑定を依頼する事にして、散会致しました。・・・続く・・・アジアの片隅より



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by asianokatasumiyor | 2016-08-04 08:15 | 反核・平和



初めまして

 土師祈昌の娘の実紗です。

 父が昨年の10月に脳血栓で倒れた為に、このブログを中断してから随分になり、多くの読者の方から心配するメール等を戴いて居りましたが、返信する事も叶わず、申し訳ありませんでした。

 幸いにも、父の症状は思ったほど重くなく、若干の後遺症は在るものの、自分で日常生活を送れる程に回復し、現在も通院しながらリハビリに励んで居ります。

 今回、父の依頼を受けて、昨年の8月1日から8月6日に掲載した記事を「アーカイブ」として掲載させて戴きます。



 先の戦大から、70年の時を経て、『戦後70年』『被爆から70年』と、言う言葉を、毎日の様に耳に致します。


 広島に生まれ育ち、今なお、広島で暮らす私には、他の方々とは別の、感慨を抱いて居るのかも知れません。



 8月が訪れ、原爆に纏わる過去の一連の記事を、「アーカイブ」として掲載させて戴きます。



【2015年1月23日 掲載記事】【7月20日・予約投稿】




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 音戸の瀬戸



 亡くなった伯父は、小学生の頃から日記を書いて居り、それを読ませて頂きました。



 藁半紙のノートに綴られた日記は、小学生が書いたとは思えない様な、漢字ばかりが連なる、しっかりした文字で書かれており、学校での生活や、大連市 ( 祖父は、海軍に所属して居た頃、大連の基地に配属されて居り、父は、昭和9年に、大連で産まれました ) の街の様子まで、事細かに書かれて居りましたが、模型の飛行機を買って貰い、それを作って遊ぶ内に、帰りが遅くなり、曾祖母に、酷く叱られた事等、子供らしい出来事も書かれて居りました。

 広島県立広島第一中学校に進学してからの日記は、革張りの重厚な手帳に書かれていて、遺品の万年筆 で書かれただろう、その文字は、素晴らしい程の達筆で、日々の生活に添えて、戦況の事や、今、自分の為すべき事や、将来の自分の夢について、熱く語られて有りました。


 そして、亡くなった年の日記帳の最初の見開きに、『亜細亜の片隅より』 と、題された、一片の詩の様な、手記を見付けたのでした。

 此処に、紹介させて頂きます。



亜細亜の片隅より


 亜細亜の片隅より 濱辺に立ちて 皇国を思う

 亜細亜の片隅より 濱辺に立ちて 異国を思う

 亜細亜の片隅より 濱辺に立ちて 朝(あした)を思う

 亜細亜の片隅より 濱辺に立ちて 昨日を思う

 命は何処へ逝く 魂は何処へ行く 此の哀しみは何処へ往く

 斗わねばならぬ 勝たねばならぬ

 勝てば命を奪ふ 親を奪ふ 兄姉を奪ふ 友を奪ふ

 涙を産み 哀しみを産み 怒りを産む

 亜細亜の片隅の濱辺に立ちて

 自らを 戒め 鍛え 努力し

 広く 温かな 手のひらを持って

 いつか手を取り合わん

 いつか語り合わん

 未だ見ぬ 異国の人々よ


 昭和二十年七月二十七日  亜細亜の片隅より



 これが、伯父が記した手記です。



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 これを書いた、10日後に亡くなった分けですが、実は、これを書いた3日前の、7月24日に、呉海軍工廠への空爆 により、大好きだった、二人の姉 ( 次女と三女 ) を同時に失うと言う、痛ましい出来事が有りました。

 次女と三女は、祖父の計らいで、呉海軍工廠で、給仕係として働いており、爆撃を受けた建物の下敷きとなって亡くなられたそうです。

 恐らく、二人の姉の葬儀の日に、書いたものと思われます。

 この年の3月に、尊敬していた叔父が、ビルマで戦死したと言う訃報を受けて、深い悲しみに打ちひしがれ、哀しみも癒えぬうちの、二人の姉の死は、伯父にとって、いかばかりで有ったか、量り知る事は出来ません。

 文面から感じる心の葛藤も、量り知る事は出来ません。

 異国の人と、何を語り合いたかったのでしょうか。


 祖父は、私が生まれる2年前に、亡くなって居りますので、祖父を知りません。

 私が伝え聞いている事と言えば、第一次大戦の、徴兵検査で、5尺9寸(約180㎝)・21貫(約80㎏)の大男だった事と、禿頭のクセに、女性にはマメで、死ぬ間際にも、20歳年下の現妻 ( ゲンサイ・彼女 ) が居たと言う事くらいです。

 二人の娘の死、続け様の息子の死に、どれ程の辛さに襲われたのでしょうか。

 
 今は無くなった風習ですが、当時は、親よりも先に死んだ子供は、「親不孝者とされ、親は、葬儀に立ち会えない決まりとなって居たそうです。

 祖父は、娘の葬儀には一切係われず、葬儀の間、親戚の家で、独り ( 祖母は、私の父が、3歳の時に、12人目の子供を出産する際、難産の末に亡くなって居ました。その後、子沢山の上に乳児を抱えた、祖父の窮状を見かねた上官の計らいに依り、海軍を退役する形で、実家の在る、呉海軍工廠に勤務する事となり、大連市から音戸へ帰ったのでした ) で、過して居たそうです。


 そんな事の直後だったからでしょう、瓦礫の散らばる、煙と埃だらけの道を、誰の手も借りず、息子の遺体を抱きかかえて運んで行きました。


 父の家族は、日中戦争 から、大東亜戦争 の間に、母、長男(海軍少尉でしたが、ミッドウェー海戦 で戦死)、七女(3歳の時に病死)、次女(戦災死)、三女(戦災死)、三男(戦災死)と、六人の家族を失いました。


 今、聞くと、大変な出来事ですが、これが普通でした。


 そう言う時代でした。 

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 昨年末辺りから、戦後70年と、よく言われます。

 戦争の記憶の風化が、もう、随分前から叫ばれています。


 70年前、父の家族を襲った不幸は、日本中に、世界中に、満ち溢れて居た出来事です。

 もう10年もすれば、戦争を体験した人は、殆んど居なくなるでしょうし、20年経てば、全くと言っていい程、居なく成ります。

 その時、この国は、どうなって居るのでしょうか? ・ ・ ・ 新たな戦争体験を、していないと言い切れるでしょうか?


 音戸の伯父さんが言っていた様に、「良い国」には成れないのでしょうか。
 
 私には、アメリカ人の友人は居ますが、アメリカと言う国家は嫌いです・・・しかし、右翼思想者では有りません。

 かと言って、左翼思想者でも有りませんから、高校生平和ゼミナールの活動から離れて行きました。

 亡くなった伯父の日記を読んでから、 も、必要ない事に気付きました。

 それ以来、友人等への手紙の結語の代わりに、アジアの片隅よりと、記す様に成りました。


 今、市役所 の前を通る度に、伯父や祖父や父の事が思われ、辛い気持ちになるのでした。・・・・アジアの片隅より


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by asianokatasumiyor | 2016-08-03 18:00 | 反核・平和
初めまして

 土師祈昌の娘の実紗です。

 父が昨年の10月に脳血栓で倒れた為に、このブログを中断してから随分になり、多くの読者の方から心配するメール等を戴いて居りましたが、返信する事も叶わず、申し訳ありませんでした。

 幸いにも、父の症状は思ったほど重くなく、若干の後遺症は在るものの、自分で日常生活を送れる程に回復し、現在も通院しながらリハビリに励んで居ります。

 今回、父の依頼を受けて、昨年の8月1日から8月6日に掲載した記事を「アーカイブ」として掲載させて戴きます。


 先の戦大から、70年の時を経て、『戦後70年』『被爆から70年』と、言う言葉を、毎日の様に耳に致します。


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 8月が訪れ、原爆に纏わる過去の一連の記事を、「アーカイブ」として掲載させて戴きます。



【2015年1月22日 掲載記事】【7月20日・予約投稿】

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 被爆後の御幸橋




 そして、昭和20年(1945年)8月6日、勤労奉仕 で、疎開家屋の解体作業をしていた、市役所付近で被爆し、16歳の夢多き命を奪われました。


 翌日の早朝、祖父や親戚の方に伴われ、伯父を探す為に同行した父達は、祖父の舟で広島へ向かい、元安川を遡って鷹野橋に舟を係留して、伯父の捜索に向ったのでした。


 ほんとうに奇跡の様に ・・・ 何かに誘われる様に ・・・ 折り重なった黒焦げの遺体の中に、伯父を見い出す事が出来たのでした。


 祖父は、慟哭しながら、焼け焦げた丸太の様になった伯父を
帆布 で包んで抱きかかえると、誰の手も借りず、舟まで連れ帰りました。

 手漕ぎが殆んどだった当時、
焼玉エンジン を搭載した祖父の舟の、エンジンの音が無性に大きく聞こえ、泣きながら耳を塞いで、音戸まで帰ったのだと、父が話して呉れました。



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 広島高校生平和ゼミナール の活動の様子



 高校生の頃、広島高校生平和ゼミナール に関わっていた私は、伯父の遺品を見せて頂く為に、墓参りも兼ねて、父の実家を訪ねました。




 倉橋島に在る、小さな漁港の、海沿いの実家には、お盆の度に行くのですが、それ以外で訪ねるのは久し振りでした。

 

 伯父さん ( 次男 ) や伯母さん達と、父や家族の近況を交えながら、亡くなった伯父の写真など拝見して、想い出話を伺いました。



 伯父さんは、写真を見ながら、



 「 こんに (彼) もそうじゃし、ビルマ で死んだ叔父さん ( 広島女子高等師範学校で助教授を務めて居りましたが、徴兵され、ビルマで戦死しました ) も、頭が良ぉて、優しい人じゃったが、皆、死んでしもぉた。」


 
「 ピカ (原子爆弾の俗称)
だけじゃのぉて、戦争で死んだなぁ、頭がえぇ人やら、人柄がえぇ人ばっかりじゃ・・・残ったなぁ、根性が悪りぃ、勉強も、ほろくに出来ん、儂等みたぁな、働くしか能が無ぁぁろくでも無ぁモンばっかりよ!」


 「こがいな事じゃぁけぇ、日本が、えぇ国に成るわきゃぁ無ぁよのぉ! ・ ・ ・ 小ずるい事ぉして、わら (自分達) だけが、生き延びゃぁがった政治家と、皆を殺しゃぁげた進駐軍 の奴らが、法律 ぅ作って、戦争に負けた後のドサクサに紛れて、ヤクザ紛いの奴等が、隠匿物資 やら、金片景気 で大儲けぇして、大企業の社長に収まっちょるんじゃけぇ、えぇ事にゃぁなりゃぁせんよぉのぉ!」と、笑いながら伯父さんが言いました。・・・続く・・・アジアの片隅より


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by asianokatasumiyor | 2016-08-02 18:00 | 反核・平和


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 幸いにも、父の症状は思ったほど重くなく、若干の後遺症は在るものの、自分で日常生活を送れる程に回復し、現在も通院しながらリハビリに励んで居ります。

 今回、父の依頼を受けて、昨年の8月1日から8月6日に掲載した記事を「アーカイブ」として掲載させて戴きます。



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 雪の原爆ドーム




 昨日、数少ない、このブログの一般読者の方から、


「ブログのタイトルの、『アジアの片隅より』は、吉田拓郎『アジアの片隅で』 からとったものですか?」との、質問が在りました。


 ファンと言う程では在りませんが、、吉田拓郎氏は、ほぼ 広島県人 ( 鹿児島県出身 ) ですし「広島フォーク村」 の発案者であり、好きな曲も沢山在るのですが、これからとったモノでは在りません。



 
 『アジアの片隅より』 は、原爆で亡くなった、伯父の残した手記に依るものです。



 私の父は、11人兄弟 ( 兄4人・姉6人…当時としても多い方でしたが、富国強兵の時代でしたから、今の様に、テレビで取り上げられる程、珍しい事では無かったそうです) の末っ子として生まれ、原爆で亡くなった伯父は、5歳年上の三男に当たります。


 伯父は、大変な秀才だった様で、尋常小学校の3年生の頃には、既に教師から学ぶ事が無くなり、中学校の教科書の他、独逸語や英語も独学で勉強しており、幼少期を過ごした中国語も堪能でした。


 教諭が休みの時には、代わりに教鞭をとっていたとか、学校の式典の際、吃音症 の校長に代わって、教育勅語 を暗唱していた等の、数々の逸話が残って居ます。


 父の実家は、現在の呉市の音戸町に在り、当時、祖父は、海軍を退役し、呉海軍工廠 に勤務しながら、代々の家業である、漁業に従事して居りました。


 祖父の、釣友だった、広島の老舗百貨店・福屋 の創始者である香川源兵衛氏と、マツダ の創業者・松田重次郎氏 との三人で、祖父が舟を出して鯛釣りに出た折に、手伝いの為に同舟していた、伯父の秀才振りに驚嘆し、祖父に、伯父の進路について聞いた処、祖父が、地元の実業学校 に進学させる心算だと話したので、両氏は、『これほど勉強の出来る子には会った事が無い。中学校 に行き、高等学校大学予科 を経て、帝国大学 に進むべき!』と、祖父に進言し、翌年、両氏の計らいに依り、広島県立広島第一中学校(広島県立広島国泰寺高等学校 )に、飛び級で入学致しました。・・・続く・・・ アジアの片隅より


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by asianokatasumiyor | 2016-08-01 18:00 | 反核・平和