占術・三元派北斗流推命術の継承者として、世の中で見聞きし出会った事を、日々綴って参ります。


by 魚のおじさん
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カテゴリ:想い出( 14 )

広島弁の想い出 5

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海軍兵学校東生徒館



 全国的に桜が満開となる時節と成りましたが、今日は、好く晴れ渡った、花見日和の一日でした。

 しかし、満開となる週末には、あいにく天気は宜しく無い様で、照々坊主を吊るして願掛けをなさって居られる方も御座いましょうが、私の様に酒も飲まず、賑やかな所が苦手な、出不精な者にとっては、誘われて居る花見の会を欠席する、都合の良い理由が出来たと、ホッとして居る処です。


 無粋と言われれば、その通りですが、桜の木の下で、ドンチャン騒ぎをするのも、それを見聞きしながら付き合うのも、どうもいけません。

 花見が嫌いと言う訳では在りません。

 足を悪くする前は、旧 海軍兵学校 ( 海上自衛隊 第一術科学校 )構内の一般公開に、毎年の様に参加して居りました。


 構内での飲酒は禁止ですから、面倒な酔い丹坊の相手をする事も在りませんし、指定の場所で弁当を持ち込んで食べる事も出来ますし、レストランで食事も出来ますし、売店で、とってもレアなグッズを購入 ( 最近はネット通販をしています ) する事も出来ます。

 構内は清潔に保たれて居りますし、桜も立派で美しく、警備係をされている隊員の方は親切でキビキビされていて、嫌な思いをする事は有りません。・・・私好みの桜の名所です。



 旧海軍兵学校の花見と言うと、忘れられない思い出が在ります。


 花見と行っても、それは、花見から帰ってからの出来事でした。


 結婚した翌年の、昭和63年の3月末の日曜日に、6月が出産予定だった身重の妻と一緒に、旧海軍兵学校へ花見に行ったのでした。


 それは、広島に友人も居らず、身重で引き籠りがちだった妻を外出させてあげたかったのと、フェリーに乗って、海を見せてあげたかったからでした。


 前日までの雨が、嘘の様に晴れ渡ったポカポカ陽気で、波も穏やかで、桜も八分咲きの見頃で、妻も非常に喜びましたので、楽しい思い出を作って帰宅したのでした。



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 帰宅して、リビングで一休みして居りました妻に、「これ、とらげちょってね。」と言って、買って来た御土産の袋を彼女の脇に置いて、私は、日曜日の恒例の、風呂やトイレの掃除に取り掛かりました。


 「とらげる」と言うのは、広島弁で、「片付ける・納める」と言う意味の言葉です。


 当時、私は、魚の卸業をしながら、空いた時間に、友人の料理店の手伝いや、知人の接骨医院の手伝いをしたりして、殆んど休み無しに働いて居りましたので、夕方から夜に掛けて時間の空く日曜日に、風呂やトイレの掃除や、家の中の様々な雑用をする様にして居りました。


 特に、妻は身重でしたので、変に無理をして転んではいけませんので、大抵の家の雑用は、私がする事にして居りました。


 掃除を終えて、リビングに戻りますと、妻は同じ所に座った儘で、お土産も其の儘でした。


 「何なぁ、頼んじょったのに、そのまんまかぁ。やねこいんじゃったら、言ぅて呉れりゃぁ儂が、とらげるんじゃったのに・・・馬鹿じゃのぉ。」と、何の気無しに言った瞬間、妻の表情が豹変して、


 「馬鹿やなんて、親にも言われた事あらへんわ! 何ぃ言ぅてんのか解らへん!・・・もぅ兄さんとは、口きかへん!」と、言い終えると、無言で夕食の支度を始めたのでした。



 関西人・・・特に京都の人に、「馬鹿」と言ってはいけません。


 京都の人間にとって、「馬鹿」と言われる事は、人格を完全否定されて「死ね」と言われるのと同じ重みを持つからです。


 関西に長く住んで居りましたので、そんな事は重々承知して居りましたが、ついつい、特に悪意も無く、思慮も無く、言って仕舞いました。


 後で分かった事ですが、私が普通に使って居る「とらげる」と言う言葉の意味が、妻には通じていなかったのでした。


 それに、「とらげる」と言う言葉を使っているのは、私の知り合いでは私だけですし、もし使って居る方が居られたとしても、戦前生まれくらいの年齢の方に限られると思います。



 妻の機嫌が直る事は無く、私が何を話し掛けても答えず、私だけが話し続け、無言のままで日常生活を続けると言う、妙な生活が暫く続いて居りました。



 柔らかい物腰の女性でしたが、途轍もなく強い意志を持った女性で、自分の信念の儘に生きた女性でした。


 どんな些細な親切や思い遣りにも、感謝の言葉と心を返して呉れる女性でしたが、謝られた事は一度も有りませんでした。



 そんな妻の、頑なな処も好きでした。



 半月余り経った或る朝、


 「なぁ、兄さん!、朝ご飯できたし、早ょぉ食べよぉな。」と、言いながら、私の身体を強く揺すって起こしましたので、ササッと起きて支度をして食卓に着きますと、何事も無かった様に、他愛も無い話をし始めましたので、私も、何事も無かった様に受答えをして居たのでした。



 上の写真は、結婚式の時の記念写真ですが、普段は、口紅さえ付けない女性でしたので、初めて化粧をした妻の姿を見たのでしたが、変に冷たく老けて見えるので、「化粧が似合わん」と思ったのを憶えて居ります。・・・流石の私も、口には出せませんでしたが・・・。



 桜の季節に成りますと、この事を、いつも思い出すのでた。 ・ ・ ・ アジアの片隅より


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by asianokatasumiyor | 2015-03-30 17:51 | 想い出
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 雪の銀閣寺


 
遺骨の前で泣き崩れて居る私を、葬儀に参列して呉れて居た友人夫婦が、手を差し伸べて支えて呉れました。

 
私は、友人夫婦に支えられながら、参列者に由って、妻の遺骨が骨壺に納められて行く光景を見て居りましたが、「はぁ、大丈夫じゃけぇ、アンタ等も拾ぉちゃって呉れんさい。」と、言って、友人夫婦に頼みました。

 
しかし、遺骨が一通り拾われると、職員の方が、「残りの遺骨は、納骨堂の方へ納めさせて頂きます。」と、言われた時、カッと熱い思いが込み上げて、

 「何じゃぁ!・・・それじゃぁ駄目なんじゃ!・・・そがいな事じゃぁ子供の骨が拾えんのんよ。頼みますけぇ、子供の骨も全部拾ぉちゃって呉れんさい。・・・頼みますけぇ!」と、声を荒げて叫んで仕舞いました。

 
私が、職員の方に食って掛かりそうな勢いだったので、友人が割って入り、私を制し宥めて呉れましたので、それ以上の恥を曝さずに済みました。

 
「ワテも同じ気持ちだす。どぉか全部拾わして貰えまへんやろか。頼んますわぁ。」と、義父が申し出てくださいましたので、職員の方と葬儀社の方が申し合わせて骨壺をもう一つ用意して下さって、小さな骨や灰までも、全て納めてくださいましたので、漸く私は安心出来たのでした。


 
その後は、葬儀は滞り無く進み、妻の実家へと帰ったのでした。

 
この醜態に因り、妻の親戚や知人の方々に、良くも悪くも、私の存在を印象付ける事に成りました。

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雪の宇治 平等院 鳳凰堂


 
妻は、カトリック教徒でしたので、納骨は一か月後に行われました。

 
教会で妻の為に追悼ミサが行われ、多くの親族や信徒の方が集まって妻の死を悼み、聖歌を歌ってくださいました。

 
神父様は、納骨にも立ち会ってくださいまして、厳かな雰囲気の中で、私の提言に因り、骨壺に納められていた遺骨を木箱に入れ替えて、無事に御墓に納める事が出来ました。

 
現在は、住宅事情よりも厳しい墓所事情が在り、通常は○○家之墓などとして、何人もの遺骨を骨壺に納めて合祀する場合が殆んどです。

 
しかし、先祖を正しく供養し、子孫の繁栄を願うならば、子が親の夫婦墓を建立するのが望ましいと考えて居ります。

 
また、合祀墓の一般的な形式と成ったカロート式の石室に、幾つもの骨壺に遺骨を入れて納める事も関心出来ません。

 
墓は、遺骨を収納する倉庫では在りません。

 
墓は、自分を産み育てて呉れた両親や、幼い頃溺愛してくれた祖父母をはじめ、数十億年前の、原始の海に芽生えた微細生物から、奇跡的に途切れること無く受け継がれて来た、生命の鎖の血脈を引き継いで、自分に生命を引き渡してくださった御先祖が、生前に拠り代とされておりました肉体の大本である、遺骨を納め土へと還す聖域であるとともに、先祖崇拝の対象物であり、「血族の根」とでも言うべき一家繁栄の根幹で在ると考えて居ります。

 
骨壺に遺骨を入れて、カロート式の墓に納めたのでは、千年経っても土に還る事は出来ず、本来の墓の意味を為しせん。

 私は、個人的な考えとして、日本が斜陽の命運を辿って居るのは、先祖を正しく祀らない墓が増えて来ている事や、先祖を敬い、手を合わせる習慣が失われて来た事が、多分に影響して居ると考えて居ります。

 カロート式の墓で在っても、底が土で在れば、遺骨を木箱や布袋に入れて納めれば、次第に朽ちて土に還る事が出来ます。

 
妻が京都に帰ってから、占術家としての私の、この様な話を聞く内に、義父母が至極関心を持たれ、骨壺に納められていた曽祖父母 ( 娘からみてで、義父の両親です ) や高祖父母の遺骨を、布袋に入れ替えられ、妻の遺骨を木箱に納められたのでした。

 
妻の実家の墓所に付いては、昨年の12月26日の記事で触れましたが、妻の墓は、曽祖母の墓の在る瑩域に、曽祖母の墓の隣に、義母の墓のスペースを一つ分開けて建てられました。

 
妻の実家は、鎌倉時代から続く家で、宗派は真言宗ですが、広い墓所が二カ所在ります。

 
義父の父である曽祖父が、京都帝国大学 ( 現・京都大学 ) の学生だった頃、敬虔なカトリックの信者だった曾祖母と恋に堕ち、親の大反対を押し切って駆け落ちした末に結婚されたのです。

 
その結果として長女である義伯母が産まれ、高祖父母も致し方無く結婚を認め、今に至りますが、義父は4人姉兄ですが、義父以外は全て女子で、姉や妹は、敬虔なカトリックの信者で、実家を継いだ義妹夫婦も敬虔なカトリックの信者で、義妹夫婦には子供が無く、私の娘が後を継ぐ事に成りそうですが、義父は娘の婿に強い期待を抱いて居りますが、娘は母親譲りの強い信仰心を持って居りますし、私の事で懲りている義母の意向が強く、義父の願いは叶いそうに有りません。

 
尤も、義妹夫婦は、大切な御先祖様の御墓として代々守って行って呉れると申して居りますので、無縁墓に成る事は無いとは思いますが・・・。

 
妻は、私 ( 身長167㎝ ) より背が高く、172㎝ でしたが、娘は自称175㎝ と言って居りますが、私が素足で並んでみて178㎝ は有るとみている大女で、おまけに私の様な小不細工な男の血が混ざりましたので、妻程の美貌も無く、恋愛対象は、自分より背が10㎝は高い人でなければ嫌だと申して、偶に会って話をする時、バレーボールやバスケットボールの選手の中からでも探すのかと笑って居ります。

 
その上に、条件の中に、「父さんの様に、世の光の為に尽くして夢を追い続けて居る人」と、言うのが在り、「もし、そがいな奴が居ったら、儂が釣りに誘ぉて瀬戸内海に沈めちゃるけぇ。」と、笑いながら言って居りますが、親の悪い所は似るモノだと、尽々思います。

 
娘は今年の6月で27歳に成りますが、義父母や上司や、親戚の方が薦めてくださる見合い話を、釣書を見ただけで断り続け、その内に行かず後家に成って仕舞うと義父母を心配させて居りますが、休日には愛車でツーリングに出掛ける事を趣味にして居り、当分、嫁に行く事も、婿を取る事も無さそうで、私も若い頃は、バイクでツーリングに行くのが好きでしたが、妻の実家に行った時は、車庫に止めて有る、娘よりも年寄りの大型バイクを眺めながら、親の悪い所は似るモノだと、尽々思って居る次第です。


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 鹿苑寺の金閣


 
娘は、夭折した母親の影響からか、医大へ入り、大学病院で循環器系の内科医として勤務して居りましたが、上司からの縁談を断った事が切っ掛けで、人間関係が面倒な事に成って退職し、別の病院に移って内科医として勤務しながら、困って居る人の助けに成りたいと言って、医療相談室でケースワーカーも務めて居ります。


 
私は、独り広島で過ごし、勤務の傍らで、師 ( 同年7月に他界されました ) の顧客だった方々から依頼を受けて、占術に由る、陰宅風水 ( 墓相 ) や 陽宅風水 ( 家相 ) の鑑定や、姓名学に由る名付けや、縁談話の相談まで致して居りました。

 
一人でも多くの子供が世に出る事を願って、友人等と共に、子授け整体 ( 妊娠し易い身体造り ) を提唱し、不妊治療をされても結果を得られない御夫婦の、体質改善の施術を致して居りました。

 
広島市が、平成19年3月で、外郭団体の殆どを解体してリストラされてからは、広島市内で接骨医院を開業し、本格的に子授け整体を行って居りましたが、4年前の交通事故に因って足が不自由と成ってからは廃業し、子授け整体 ( 妊娠し易い身体造り ) の指導・相談にあたらせて頂いて居ります。

 
ブログのプロフィールにも在る様に、現在は、料理請負人を生業とし、これまでに取得した、調理師免許・河豚調理師・日本料理専門調理師・日本料理専門技能士・職業訓練指導員(日本料理科) の資格を看板代わりに、広島市内を中心に、料亭・割烹・旅館・ホテル等から依頼を受けて、厨房に立たせて頂いて、一人でも多くの方に喜んで戴ける様に、心を込めて料理を作ります。

 
何事にも行き当たりバッタリで、恥と後悔ばかりの、器用貧乏の典型の様な人生を歩んで居りますが、此れが妻が望んだ、「世の光の為に生きる」と言う事に繋がっているのかに付いては、全く自信が在りません。


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 Sheena & Rokkets'


 
SHEENA & THE ROKKETSのボーカルであるシーナ、異、鮎川悦子 女史が、子宮頸癌の為に、2月14日に、61歳で亡くなられた事を知った時、妻や自分の事が思い起こされ、身につまされて、とても切ない気持ちに成りました。

 
私が、兄貴と慕う、鮎川誠 氏も、私と同じ様な後悔をされて居るのではないかと思い、胸が痛みました。


 
何故、もっと早く病気に気付いてあげられなかったのだろうと、いつも自分を責めて居ました。

 若し、今の医療技術が在ったならば、子供は産まれていて、24歳の年頃の娘に成って居たでしょうし、妻も、もう少しは延命が叶ったでしょうし、若しかしたら助かって、50過ぎの、いいオバサンに成って居たかもしれません・・・50過ぎのオバサンに成った妻の姿など、想像する事さえ出来ませんが、此の四半世紀の間、いつもこんな事を、心の何処かに抱き続けて生きて来ました。


 
妻とは駆け落ちをして結婚した為、入籍はしませんでした。

 
妻が、義父母に認めて貰えるまでは、入籍したくないと望んだからでした。

 
また、「そんなに卑下されてまで結婚する必要は無い。」と、言って、私の両親も反対致しましたので、結婚式は、京都から駆け付けて呉れた友人夫婦だけが付き添って呉れて、広島市内の教会で行いました。

 
妻が娘を妊娠した時は、すぐに胎児認知をして、翌年の6月に出産致しました。

 
その為、出生届を提出した時点で妻の戸籍に入り、娘の戸籍の父母欄に、私の名前が記載されて居るだけです。

 
その為、姓名学の上で、妻の姓に合う様に娘の名付けを致しましたし、義父の籍に入る手続きも簡易に済みました。

 
それで本当に良かったのだろうかと、時々、考えますし、そもそも、私などと結婚せずに、義母の奨める見合い相手と結婚して居たら、もっと別の、幸せで永い人生を過せたのではないか?・・・妻は私と結婚して幸せだったのだろうか?・・・と、そんな事を、未だに考えて仕舞うのでした。


 
近年、子宮頸癌は、ヒトパピローマウイルスの感染に起因する事が知られて来ました。

 
普通の人には信じ難い話ですが、駆け落ち結婚をしたとは言え、敬虔なクリスチャンであった妻は、結婚式が済むまで処女でしたので、感染に起因する事を知った時、私は強い衝撃を受けて、暫くの間、滅入って仕舞いました。


 
暫くの間、独り暮らしをして居りましたが、平成6年に、女性と結婚し、10年余りの結婚生活の中で、3人の息子をもうけましたが、別居の末に離婚致しました。

 二人目の妻も、とても素敵な女性でしたが、身勝手な私の生き方に限界を感じて衝突し、結局、離婚に至りました。

 その時には、解りませんでしたが、今、冷静に考えれば、全て、私に非が在ります。


 
それから7年に成ります。


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 シーナ&ロケッツ



 
敢えて下世話な話を致します。


 
子宮頸部に癌細胞が増殖しているのに気付かず、夫婦の営みの時に、『最近、凄い良ぉなってきたんじゃが、子供を産んだら良ぉなる言ぅんは本当じゃのぉ。』と、密かに嬉しがって居た、愚かな男です。

 
夫婦の営みの在った次の日に、妻が少量の出血が在ったと言って居るのを聞いて、『ゆんベは ( 昨夜は ) ちぃと激し過ぎたかのぉ。』と、密かに思って居た、救い様の無い男です。

 
もし、身に覚えのある方は、すぐに検診なさってください。( パートナーを検診に連れて行ってください )

 
子宮頸癌は、尖圭コンジローム疣贅などの感染に由っても引き起こされますので、男性の方も定期的に検査をされて、感染されている場合は、治療や適切な対応をなさってください。 

 
予防接種には、リスクを伴う事も報じられて居りますので、積極的に御奨めは出来ませんが、検討をなさってください。

 
検査をする事は、とても恥ずかしい事ですが、女性スタッフばかりの病院も増えて居りますので、定期的に検査をなさってください。

 
義母も、若い頃に、子宮癌を患われましたが、親族に癌を患った方が居られる場合は、特に注意をなさってください。


 
私の人生など、失敗と挫折と恥と後悔で構築された様な、愚かな生き様です。

 
反面教師として、失敗談を語る事でしか、人を導く事が出来ません。

 
占術の鑑定に出向いては先生と呼ばれ、子授け整体の指導に行けば先生と呼ばれ、厨房に立っては先生と呼ばれては居りますが、真に愚かな男です。



 
毎年、クリスマスが近付くと、妻の事ばかりを考えて仕舞います。


 
私が敬愛する、鮎川の兄貴も、バレンタインデーが近付くと、シーナさんの事ばかり考えて仕舞うのだろうかと考えながら、イーグルスの曲を聴いています。・・・アジアの片隅より



編集後記
 
シーナ&ロケッツのシーナさんが亡くなった事に纏わる、私事を少し書く心算で書き始めましたが、余談ばかりで、随分と長い話になって仕舞いました。
 
妻の写真や娘の写真を掲載しようかと、娘に伺いを立てましたら、「あかん!」と、即答されて仕舞いました。
 
誰にも話した事の無い事ばかりの懺悔の様な記事に成りましたが、何と無く心が軽く成りました。

 
最初から最後まで、読んでくださった方は、殆んど居られないと思いますが、心より感謝致します。・・・アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-03-03 08:59 | 想い出
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 京都市中央斎場 入場口


 
車は程無く、京都市中央斎場へ着きました。


 
火葬場と言うのは、どんなに近代的で、ホテルのロビーと見紛う様な施設に成ったとしても、訪れるのは切ないものです。


 
最後のお別れの時、お棺の中で眠る妻の顔は、葬儀社の方が施してくださったエンバーミングと、義母が施してくださった死に化粧によって、とても安らかな寝顔でした。

 
普段は、化粧などしない妻の化粧姿を見たのは、結婚写真を撮った時と、この時の、二回切りに成りました。

 
娘を抱きながら、別れを告げようと致しましたら、「死」の意味を理解出来ない娘が、何度も何度も呼び掛けるのを聞いて、ギュッと抱き締めて、

 
「はぁ母さんは目を覚まさんのんよ。神様の所へ召されて行くんじゃけぇ・・・実紗もお別れを言ぃんさい。」と、申しましたら、胸の前に十字を切って、手の平を組み合わせて祈って居りました。

 
妻は入院中、「母さんはな、もぉちぃとしたら、神様の所へ召されるんや・・・神様の所へ行って、皆が幸せに成れる様に御祈りをする仕事をするだけやさかい、なぁんも悲しぃ事はあらへんのやで・・・そやから、実紗もなぁ、皆が幸せに成れる様に御祈りをしてなぁ・・・そぉしてたらな、神様も、実紗の事を見守ってくれはるし、母さんが傍に居るのとおんなじなんやから、なぁんも怖い事はあらへんのやで。」と、いつも娘に話して居りましたので、娘は教えられた通りにしたのでした。


 
やがて、妻の棺は、職員の方の手に依り、焼却炉の中に納められました。

 
とても優しい方で、私を至極労わってくださり、かっては隠亡と呼ばれ、卑下されて居りましたが、人の生涯の最後を御世話してくださる、尊い仕事だと思います。



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 白百合の花言葉:威厳・純潔・無垢


 
待合室で、大勢の参列者と共に、妻が焼け終わるのを待って居りました。

 
娘を抱きかかえて、義父母や義妹と一緒に居りますと、親戚の方々や、仕事関係の方々が、代わる代わる御悔みを言いに来られましたが、殆んどの方と初対面で、私の事を、「娘さんを駆け落ちさせた末に死なせた男」として見ている方が多かったので、気丈に振る舞い、丁重に御挨拶を致しはしましたが、針の蓆に座らされて居る様な心持でした。

 
しかし、娘の存在が、私を救って呉れました。

 
誰もが娘を、妻の子供の頃に生き写しだと言って愛で、娘を残せた事が、夭逝した妻の、せめてもの福音で在ると語って居られました。


 
やがて、管内放送が流れ、葬儀社の方が案内に来られ、案内に従って、再び焼却炉の前に立ちました。


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 赤いバラ


 私は、地理風水を、最も重要な主題として研究して来た、占術家としての立場から、死後は火葬にせず土葬にすべるきと、未だに考えて居ります。

 叶う事なら、妻を火葬にして欲しくは無かったのでした。

 仏教の修行の戒めに、「骨相観」と言うモノが御座いますし、「美人薄命」とも申しますが、職員の方が、焼却炉から妻の遺骨を引き出される瞬間、そんな言葉が脳裏を過りました。


 遺骨を目の当たりにして、『芙美ちゃんは、幸せじゃったんじゃろぉか?』と、そんな事も一瞬考えて仕舞いました。


 職員の方の説明を受けながら、義父が泣きながら、妻の喉仏の骨を、長い竹箸で拾い上げて、小さな壺に納めました。

 職員の方から、足先の骨から順に、骨壺に納める様に言われた私等は、足先の骨を拾って骨壺に納めました。

 ふと目を遣ると、お腹の辺りに、子供の骨と思われる小さな塊が有り、箸で拾い上げようとしましたら、その細さ故に、箸先で崩れ落ちて仕舞いました。


 その瞬間、私の心を支えて居たモノが崩れ落ち、正気を失って仕舞う程、慟哭致しました。


 後に義父が、「山科の端っこまで響く様な大声で泣いてはった。」と、笑うくらい、大きな声で平伏して、泣き続けて居りました。・・・アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-03-01 18:08 | 想い出
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 平成2年当時の京都駅


 
京都駅に到着したのは、午後9時前でした。

 

 
京都御所と平安神宮の間に在る病院まで、精々20分程度だったと思いますが、どれだけ長く感じた事か・・・月曜日とは言え、クリスマスイヴのこの日、街は華やいで居りました。

 
病院に到着し、もどかしい思いで夜間受付の手続きを済ませると、妻の病室を目指しました。

 
病室に着くと、既に、入り口の周りに親戚の方や数人の友人が集まって居られ、私を見ると、病室に入る様に促されました。


 
病室に入ると、看護婦さんが付き添っておられ、ベットの傍に義母が娘を膝に乗せて座り、その傍に、義父が寄り添い、義妹が足元の方に椅子を置いて座って居りました。

 
「とうさん!」と、病室に入った私に気付いた娘が呼びましたので、寄って抱き上げますと、妻も気付いた様子で、少し首を横に向けて、閉じて居た目を開いて私を見ようとして居りました。

 「芙美ちゃん!」と、覗き込みながら声を掛けますと、僅かに頷きました。

 
何か話したがっている様子で、娘を義母に託して跪き、手を握ると、看護婦さんが酸素マスクを外してくださると、か細い声で、

 
「兄さん、来てくれたん・・・」と、囁く様に言うと、2、3度、浅い深呼吸をして、

 
「今まで、ありがとう・・・ほんとに、ありがとう・・・ありがとう・・・。」と、言うと、フゥゥッと溜息を吐くと、安心した様に目を閉じましたので、看護婦さんが再び酸素マスクを着け直しました。

 
右手で妻の左手を握ると、妻が握り返しましたので、左手でお腹を擦りながら、妻の顔を見詰めて居りました。


 
10時頃に、担当医が来られて、触診などをされた後、義父と私に廊下に出る様に促され、

 
「奥さんは、私等さえ頭が下がるほど頑張って来られました。・・・私等も、出来る限りの事を致しましたが・・・残念ですが、覚悟をなさってください。」と、話されましたので、私が口を開こうとしましたら、それを察する様に、

 
「お腹の、お子さんも未だ未熟で・・・非常に残念ですが、諦めてください。」と、淡々とした口調で仰いました。

 
駆けつけて戴いた親族や友人の方々が、一人一人、昏睡状態に入った妻の手を握って声を掛け、私等に挨拶をされて帰って行かれました。

 娘は、義母に抱かれたまま眠りましたので、付添い用のベットに寝かしつけました。

 
私は再び妻に寄り添って、右手で妻の左手を握り、左手でお腹を擦りながら、妻の顔を見詰めて居りました。

 
病室には、リズミカルな人工呼吸器や計器の音と、妻を見詰める皆の息遣いと、私が妻のお腹を擦る微かな音が漂って居りました。


 
やがて、妻の異変に気付いた看護婦さんがナースコールを押すと、医師と数人の看護婦さんが駆け付けて来られ、脈拍や瞳孔を確認された後、妻が死亡した事を告げたのでした。


 
2時17分でした。


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 京都駅のイルミネーション


 
妻の通夜は、その日の内に、妻の実家で行われました。


 
葬儀は、京都市内の大きな斎場を借りて行われ、本当に沢山の方々が、参列してくださいました。


 
祭壇には、結婚した時に撮った写真を飾らせて戴きました。


 喪主は、義父が勤められましたので、霊柩車には乗らず、娘と義母と義妹と一緒に、霊柩車の後に続いて行きました。

 
どんよりと曇った冬空の下、未だクリスマスの余韻の残った街を通り抜けながら、山科の花山に在る火葬場に向けて、車は走って居りました。・・・アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-02-28 17:15 | 想い出
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 宇治の平等院 鳳凰堂


 9月に入った頃には、妻の病状は悪化して、何もしなくても、病巣から少量の出血が有り、腹痛を伴う様に成って居りました。

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月の中頃に、出血量が急に増加し、入院を余儀なくされました。

 
貧血の為に顔色は青白く成り、随分と痩せました。

 
そんな病状でも、お腹の子供に影響する為、鎮痛薬などは一切使わず、相当の痛みが在った筈なのですが、弱音を吐いた事は一度も無く、激痛が走った瞬間にも、顔を歪める事も無く、「ウッゥ」と、小さく呻きを漏らしながらも、歯を食い縛って耐えている様でした。

 
その甲斐在って、お腹の子供は順調に育ち、妻のお腹も随分膨らんで、胎動も活発になり、「今、蹴ってはるぅ!」とか、「母さん痛いやんか。大人しぃしときや。」と、話し掛けながら、お腹を擦って居りました。

 
最初に検査入院した時の検査結果で、肺と肝臓への転移が判明し、当時の医療技術では手術の施し様が無く、主治医も、少ない可能性に掛けて、胎児の出産に全力を傾けると仰って居られました。


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「京都大学医学部附属病院」


 
主治医の話では、1月の後半まで体力が持てば、帝王切開での出産が可能に成るとの事で、妻の体力が、其処まで持つかどうかについては、明言できないと仰いましたので、可能性は低いのだろうと感じて居りました。


 
11月の中頃、入院中の妻を見舞いましたら、正視するのも辛い程に痩せて、顔色も悪く成って居りました。

 
それでも優しい心根も表情も失わず、付いて来た娘を傍に寄せると、

 
「実紗、母さんのお腹、触ってみぃ、大きいやろぉ。お腹の中になぁ、実紗の妹が居んのやで。実紗もな、こぉやって母さんのお腹の中で大きゅうなったんや。・・・妹がな、お腹の中で産まれるよぉ言ぅて頑張ってはるから、母さんのお腹ぁ擦って、頑張ってぇ言ぅて応援したげてや。」と、言って娘の手を取ってお腹に宛がうと、娘も小さな手の平で、妻のお腹を擦りながら、 「頑張りやぁ、頑張りやぁ。」と、囁きながら、呼び掛けて居りました。

 
当時、娘は2歳半でしたが、この時の事を、未だに鮮明に覚えて居るらしく、妻の、お墓参りの折は、産まれる事の無かった妹の為の百合の花も供えて居ます。

 
妹と申しては居りますが、妻や娘が、そう感じて居ただけで、実の処、性別は不明でしたが、私も娘だったのだと感じて居ります。


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 晩秋の北野天満宮(もみじ苑)


 
12月に入ると、妻の病状は、悪くなる一方でした。

 
病巣からの出血が酷く、輸血を必要として居りましたが、妻はAB型でしたので、私は一滴もあげる事が出来ませんでした。

 
義母や義妹や親戚や多くの友人が、妻の為に献血をしてくださいました。


 
義父が、入院当初から、付添い用のベットや、トイレやシャワー室も完備された特別室を借りてくださって居りましたので、義母と、当時は学生だった義妹と、妻が幼少の頃から住み込みで働いておられた家政婦さんが交代で、妻の付き添いをしてくださいました。


 
多くの方々が、妻の願いを叶える為に、心血を注いでくださいました。


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 晩秋の京都御苑


 
12月の中頃に妻を見舞った時、その日は病状も落ち着いて居て、枕元のラジカセで、お気に入りのダイアナ・ロスの曲を聴いて居りました。

 
いつ行っても、その曲ばかりをかけて居りましたので、理由を聞きましたら、詩の内容が好きなのだと答えました。

 
妻は、国連英検の特A級を取得して居り、TOEICでフルスコアに近い加点を出し、レベルAの評価を得る程、英語が堪能で、仏語や独語や伊語も、或る程度話せましたので、広島に居た頃は、ボランティアで通訳も致して居りましたが、私は、日本語さえままならない不勉強な愚者ですから、詩の意味など分からず、「優しい感じの、えぇ曲じゃのぉ。」と、言って聞いて居りましたが、今、訳詞などを見ますと、当時の妻の心を支える、大切な曲だったのだと思います。


 曲を聴き終わって、他愛も無い話をして笑って居りましたら、妻が、急に真顔になって、

 「あのなぁ、お兄さん ( 妻の私への呼称 ) ・・・ ウチが死んだ後の事やけどなっ・・・お兄さんには、世の光の為に生きて欲しぃんや。」

 「はぁっ!?」と、声を漏らしてキョトンとしましたら、

 
「世の光の為に生きてやッ!・・・兄さんには出来るしぃ・・・兄さんは器用やから。」

 「それからな、娘等のことやけど・・・父さんや母さんに任したげて。ウチが兄さんと結婚したさかい、寂しかったんやと・・・ウチが死んで、居らんことなったら、寂しぃなるやろ。」

 「そいで、兄さんは、未だ若いんやし、どっかでえぇヒト見付けて結婚してな。兄さん、寂しがり屋やさかい、独りぼっちで生きて行けへん人やもん。・・・でもな、娘等の誕生日とかには、忘れんと御祝いしたってな。」と、言い終わると、少しお腹に差し込みが来た様で、チョッと眉を顰めてベットに沈み込みましたので、「だいじょうぶかぁ。」と、お腹を擦りながら言いましたら、「大丈夫やから、今、言ぅた事、頼むなぁ。」と、小さく笑って言いましたので、

 
「アンタぁ、病人なんじゃけぇ、要らん気ぃ使わんと、ゆっくりさして貰ぉちょきんさい。」と、言って、時折、お腹の子供の胎動を感じながら、妻のお腹を擦り続けて居りました。


 
妻の様態が急変したと、義妹から連絡が入ったのは、12月24日の夕刻の事でした。


 
すぐに支度をして、新幹線に乗り込みましたが、幾らか覚悟はしていたものの、何をどうすれば良いのか、考えようもつかないまま、妻の無事ばかりを祈りながら、ぼんやりと車窓を見詰めて居りました。・・・アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-02-27 17:56 | 想い出
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 広島の浜辺の景色


 
広島に帰ってからは、独りの部屋で生活し、出勤しては帰宅し、独りで一人分の料理を作り、独りで食事をし、独りで眠る日常を過ごして居りました。

 
唯一の楽しみは、日に一度、妻と娘に電話をして声を聞く事でしたが、元々、電話が苦手な私は、顔を見ずに話すと話題が浮かんで来ず、「元気にしちょるか?」くらいの言葉を掛けるくらいで、特別の話題も無く、妻の話を聞くばかりで終わって居りました。

 
2週間に一度、週末に新幹線で京都に行き、ビジネスホテルに一泊して妻や娘と過ごし、夕食を一緒に食べた後で広島に帰ると言うパターンで、遠出も出来ませんので、義父の車を借りて、京都周辺の観光地や、想い出の場所などを、のんびりと回って過ごして居りました。

 
妻は、検査入院から退院後、実家で過ごしながら、週に一度、病院で診察を受け、日曜日には、義母に付き添われて娘を伴い、教会の日曜礼拝に参列して居りました。

 
娘が、正式なカトリックの洗礼を御受けしたのも此の頃でした。

 
そんな8月の初めの日曜日に、妻と娘が、朝のミサを終えて帰って来るのを、妻の実家の応接室で待って居りますと、10時過ぎに、義母の車で帰って参りました。

 
義母は、帰って来るなり、

 
「土師はん、今からドライブに行くさかい、アンタも来よし。・・・何してんのや、芙実子と実紗ちゃんが車で待ってんのや。早ぉしぃや。」と、仰って、サッサと出て行かれました。

 取り敢えず、家政婦さんに挨拶をして、義母の後を追って駐車場に向かいますと、妻は義母の車の助手席に座り、義母と娘は後部座席に座って居りました。

 
車の脇で棒立ちに成って居ると、ウィンドを下げて、義母が、

 「何してんのや、アンタが運転してやぁ。ウチは、実紗ちゃんの面倒看んとあかんしな・・・なぁぁ実紗ちゃん♪」と、仰ってウィンドを下ろしたので、車に乗り込みますと、

 
「あんじょう運転してや。ウチの車やし、傷ぅ付けたらあかんでぇ。」と、笑いながら言うと、

 
「今日も朝から暑いしなぁ、お山にドライブに行こぉ思ぉてなぁ。」

 
「はぁぁ?お山ですか?」

 
「アンタ、何年京都に住んでんのやぁ。お山にドライブに行こぉ言ぅたら、比叡さんに行くんに決まってるやろなぁ・・・早ぉ行きよしな。」と、仰いましたので、

 『儂ゃぁ京都に住んじょる分けじゃぁ無ぁんじゃが・・・。』と、思いながらも、何と無く嬉しく感じ、車を発進させました。


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 比叡山ドライブウェイから琵琶湖を望む


 
平成2年の夏は、本当に暑い夏でした。・・・連日、35℃の猛暑日を超え、「猛暑」と言う言葉が使われ始めたのも、此の頃が初めだったかも知れません。

 
京都で、比叡山と言えば、天台宗の総本山で在る、「比叡山延暦寺」を思い起こされるでしょうし、現在は、ユネスコ世界文化遺産にも登録され、当時も京都の重要な観光地でしたし、比叡山ドライブウェイだけでも、年間100万人を超える来場者が在ります。

 
比叡山延暦寺と言えば、後に天台宗北嶺大行満大阿闍梨、大僧正となられた、私が尊敬してやまない、酒井雄哉 氏が居られましたので、特別な思いが在りましたが、義母や妻には、「夏でも涼しいお山」と、言うイメージしか無い様でした。

 当時は、現在ほど、観光施設は充実して居ませんでしたが、それでも、レストランで食事をしたり、公園を散策して写真を撮ったりして、楽しく過ごしました。

 
平地と比べて5℃以上気温が低いとは言え、30℃近く在ったでしょうが、カラリとした風が心地よく、楽しいばかりで、暑さが気に成る事は在りませんでした。

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 比叡前にある登仙台駐車場から京都市街を望む


 妻に無理をさせてもいけませんので、早目に切り上げて帰りました。

 
一旦、妻の実家に帰り、広島に帰る支度を整えて京阪宇治駅へ向かおうと致しましたら、義母に呼び止められ、

 「ちょっと待ちよしな・・・どぉせ店に寄って、ウチの人に挨拶して行かはんにゃろ。やったら用事もあるし、ウチが乗せてったげるわぁ。」

 そう仰ると、茶舗に出て居られる義父の所に送ってくださり、義父に挨拶を済ませると、茶舗から京阪宇治駅は、そう遠くないので歩いて行くと断りましたが、送ってくださり、車を駐車場に止めてホームまで見送りに来てくださいました。

 電車が到着して
、発射のベルが鳴りだしましたので、電車に乗り込もうと致しましたら、別れ際に、茶舗でも売られている、義母の手作りの、抹茶飴の袋を私に握らせると、

 
「アンタ、今度は、いつ来んのや。・・・今度来る時はな、勿体無いさかいにな、ホテルなんかに泊まらんと、ウチへ泊りぃさ。ウチの息子なんやさかいになっ!」と、仰いました。

 突然の言葉に呆気にとられ、「はっぁ、はぁぁ・・・。」と、返事をしながら電車に乗り込んで振り返ると、義母が少女の様に手を振りながら、笑顔で手を振って居る姿が目に飛び込んで来ました。

 
私は、閉じたばかりのドアに張り付く様にして手を振りました。

 
義母の姿は、すぐに見えなくなりましたが、今も、その光景を忘れる事は在りません。


 
妻とドライブに出かけたのは、その日が最後と成りました。


 
帰りの新幹線の中で、妻や娘の事を考えながら、義母の思いを噛み締めて居りました。・・・アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-02-26 21:25 | 想い出
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 夕映えの宇治川 


 
マンションに帰ると、妻と今後の事について話を致しました。

 
「手術をせずに子供を産む」と言う、妻の意志は変わりません・・・両親や家より、私の様な愚者を選んで駆け落ちした女性ですから、表向きは温和ですが、中身は驚嘆する様な強い心を持った女性でした。

 
彼女の最後の願いを叶えられる様に、どんな事でもしなければ為らないと思いました。


 
主治医の話では、妻の場合、子宮頚部に発症した癌が、子宮内膜や卵巣にも転移して居り、広汎子宮全摘出術と言う手術を行う必要が在り、お腹の子供も、術後の妊娠も、諦めなければ成らないとの事でした。

 
また、他の臓器に転移している可能性 ( 後に行った検査で肺と肝臓への転移が判明しました ) も有り、手術を行わない場合の余命は半年と宣告されました。

 
妻は、妊娠4週~5週程度の妊娠初期で、出産予定日は2月の中頃でした。

 
あと8か月・・・私は、何を為すべきか、考えに考え抜きました。

 
 
私は、妻の御両親に、手紙を書きました。


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 夏の風物詩 宇治川鵜飼船


 妻の実家へは、二人で広島に戻ってから、結婚式の招待状と、娘が産まれた事を知らせる手紙を書きましたが、孰れも何の連絡も頂けず、毎年、年賀状も書いて居りましたが、返信は頂けませんでした。


 当然の事だったと思います。


 手紙に、妻の病気の事と妻が子供を産む決意を固めた事、その為に、私は、どんな事でもしなければ為らないと考えている事を、此れまでの私の非礼についての謝罪の言葉を添えて綴りました。

 手紙を書き終えたのは深夜でしたので、中央郵便局の深夜受付の窓口まで出向いて、速達で出しました。


 翌々日の夕刻に、義父から電話を戴きました。

 義父と御話しするのは3年振りの事でした。

 元々、義父は、私と妻が交際する事に、それほど反対されて居られた分けでは無く、義母が大反対されて居りまして、最後に御会いした時(妻との交際を認めて戴く様に御願いする為に、妻の実家を訪ねた時)に、有らん限りの罵りの言葉を私に浴びせましたし、娘を奪って行った私の事を恨んで居られましたから、義父が電話をしてくださったのでした。

 一通りの御挨拶を済ませると、妻に受話器を渡し、久し振りの親子の会話に、2歳に成ったばかりの娘も加わり、長い時間話して居りましたが、電話を替わる様に言われた妻から受話器を受け取ると、義父が、

 「あのなぁ、ウチのとも、話しぃしたんやけど、あんたも仕事が在るやろし、小さい子ぉを看ぃ看ぃ芙実子の看病も出来へんやろ・・・そやから、どぉやろなぁ、実紗ちゃんの面倒も、うちで看るさけぇ、こっちへ来て治療したらどないよろぉと思うんやけどなぁ・・・こっちには、えぇお医者さんも居ってやし、えぇ病院も在るさけぇなぁ。と、仰いました。

 「ほいじゃけど・・・」と、私が言いかけましたら、

 「頼んますわぁ!・・・ずぅっと心配で心配でかなわんかったんや・・・そやけどなぁ、ワテもウチのも意地張って仕舞ぉてなぁ・・・手紙とかもろたのに返事もせぇへんで堪忍やでぇ。」

 「ほんまに魂消たがな、芙実子が癌で死ぬやなんて・・・そやからなぁ、最後は、ワテ等に面倒看さして欲しぃのや!拝むさかい!」と、泣いて居られる様でした。

 私は、只々申し訳無いばかりで、声を詰まらせながらも、実家で妻と娘を看て戴く事を御願いして受話器を下ろしました。

 当時、私の実家は、両親と兄夫婦が同居しており、実の処、私は兄や義姉とは折り合いが悪く、両親は仕事で忙しい生活を送って居りましたので、実家を頼る気持ちは在りませんでした。

 妻との話し合いで、京都の実家に頭を下げて、助けて戴く事を提案した際、妻は広島で子供を出産すると言い張りましたが、私は、妻の実家に助けて頂くのが一番良いと思いましたので、義父母に宛てた手紙の文章には、「妻と娘の面倒を看て頂きたい」とは書いて居りませんでしたが、そんな気持ちが見え見えの文面で、義父が、そんな私の気持ちを汲み取ってくださっての、在り難い申し出でした。


 翌日には、主治医に御願いして、紹介状を書いて頂き、会社へは休暇願を提出して、頑なに嫌がる妻を説得して支度を整えて、購入したばかりのタウンエースに荷物を満載して京都に向かったのは、金曜日の早朝の事でした。


 今なら、山陽自動車道が開通し、京滋バイパスも全面開通して居りますので、3時間余りで着きますが、当時は、広島市内から中国自動車へ入り、名神高速を大山崎で降りて、妻の実家の在る宇治市へ着いた頃には昼を過ぎて居りした。

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 宇治公園周辺 朝霧橋


 3年振りに妻の実家の門の前に立つと、あの嫌な記憶が呼び戻されましたが、意を決して呼び鈴を押しますと、家政婦さんが出られて、「お待ちして居りましたので、どうぞお入りください。」と言われましたので、私は娘を抱きかかえて玄関へと進み、妻は私の後ろに着いて参りました。

 挨拶をして玄関の引き戸を開けると、着物姿の義母が正座をされて待って居られました。

 私が敷居を跨ぐのを躊躇して居りますと、

 「土師はん、久し振りどすなぁ・・・話しはウチの人から聞ぃとりますさかいにな。ウチは、アンタ等の事を許した訳やおまへんけど、芙実子が病気や言ぅさかいにな・・・その子ぉが実紗ちゃんやな・・・可愛い子ぉやないかいな、可愛い孫の父親として入って貰うさかい、早ぉ入りよし・・・芙実子も何してんのや、虫が入るし早ぉお入り、自分の家なんやさかいな。」と、淡々とした口調で仰りながらも、既に涙を零しながら妻を招きよせると抱き締め、暫く抱き合ったままで、さめざめと泣いて居られました。

 一頻り泣き終わると、今度は娘を呼び寄せて抱き締め、 「実紗ちゃんか。ウチが、アンタのおばーちゃんやでぇ。」と、この人は、こんなにも優しい声で話す女性なのだと、私を驚かせる様な猫撫で声で、何度も何度も繰り返して話しかけて居られました。

 
 程無く、煎茶の加工場に出て居られた義父も帰宅されて、「孫は茶の間の宝や!」と仰りながら、義母と孫の気の引き合いをして、妻に叱られて居りました。


 
 翌日、ドライブインのオーナーの釣友の、医院長先生に紹介して戴いた病院へ診察に行き、そのまま1週間ほど検査入院する事に成りました。

 その頃は未だ、何処に病気が在るのだろうかと疑って仕舞う程に、妻は元気でした。

 しかし、妻が広島に帰る事は二度と在りませんでした。


 日曜日の朝、入院中の妻を見舞った後、病院の玄関先で、義父母と娘に見送られながら、広島に戻って行ったのでした。・・・アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-02-24 22:06 | 想い出
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 シーナ&ロケッツ


 前回の記事でも触れましたが、シーナが、子宮頸癌の為に亡くなったと言う知らせを聞いた時、妻の事が想い出されました。

 妻が若くして亡くなった事は、昨年の12月26日の記事で触れましたが、妻の死因も子宮頸癌でしたから、身につまされる思いがしたのでした。


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 大吉山展望台からの京都市南部方面


 学生時代から御世話に成って居た、ドライブインのオーナーの計らいで、河豚の調理師免許を取得する為に、老舗の料亭で、三年間、修行をさせて頂く事に成った私は、学生時代の憧れだった妻と三年振りに再開し、結婚を前提に交際を始めました。

 付き合い始めたばかりの頃、ロックなどとは無縁だった妻を強引に誘って、シーナ&ロケッツのコンサートに行った事も在りました。


 私は、遣る気と元気百倍で修行し、その甲斐在って、その年の秋に行われた資格試験に合格致しましたが、妻の実家は、京都でも老舗の茶舗で資産家でしたし、妻には妹が一人居りますが、所謂、『いとさん』で、家を継いで行く身の上で、しかも義母は敬虔なクリスチャンで、カトリックの信者の男性と結婚して欲しいと考えられて居た為に、広島の貧乏な漁師の息子で、料理人などと言うヤクザな仕事をしている私と、付き合う事にさえ大反対されて居りました。

 河豚調理師の資格も取り、料理人として遣って行く自信が湧いた私は、妻との交際を認めて戴く様に御願いする為に、妻の実家を訪ねますが、玄関先で散々罵られた挙句に追い返されたのでした。


 当然の結果でした。


 此れは諦めるべきだと考えながら、アパートに帰って居りましたら、ハンドバック一つを下げて妻が訪ねてきて、

 「なっ!広島に逃げよぉ!」と、眼を真っ赤に腫らして、しかし、力強く私を見詰めて言ったのでした。

 もう、そうするしか有りません。

 手早く荷物を纏めると、ポンコツのカローラに積み込んで、ドライブインのオーナーの所へ行って事情を話し、アパートの鍵を渡して後の始末を頼むと、すぐに広島に向かいました。

 イーグルスシナロケのカセットテープを交互にかけながら、車を走らせて居りました。


 若気の至りです・・・沢山の方に不義理を致しました。


 取り敢えず、広島市内にワンルームマンションを借り、実家の仕事を手伝う傍らで、活魚の卸業を営みながら、休日には、友人の営む料理店の手伝いや、知人の整体治療院の手伝いをして、兎に角、金を稼ぐ事に専念して居りました。

 翌年の昭和63年 ( 1988年 ) には娘を授かり、仕事も順調でしたが、無理が祟って体調を崩した為、平成2年に、師の計らいで、広島市の外郭団体に職を得ました。

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 FAMILY DANCING


 就職して間もない頃、妻が、二人目の子供を妊娠して居る事が分かりました。

 しかし、今回は様子が違いました。

 病院から私の職場に電話が在り、妻に告げずに来て欲しいと言うのです・・・こんな時、良い話の筈が在りません。

 幸い、職場の近くでしたので、昼の休憩時間に、病院へ行きましたら、面談室の様な所に通されて、主治医から話を伺いました。

 妻は、かなり進行した子宮頸癌で、転移している可能性が高いので、すぐに入院して手術をする必要があるとの事でした。

 良い話では無いと思っては居りましたが、胎児に何か好く無い状態でも在るのかと考えていた私は、只々、愕然とするばかりで、放心状態で、主治医の話を聞いて居りました。

 職場に帰っても、仕事が手に着く筈も無く、妻に、どの様に話すかと言う事ばかりを考えて居りましたが、良い答えも出ないまま帰宅し、診察予定日は翌週だったのですが、仕事の都合で着いて行けないので、明日、診察に行こうと言って、病院に行く事だけを話して、言い出せない話は先送りにして、茶を濁すしか術が在りませんでした。


 翌朝、私が娘を抱きかかえて、3人で病院に参りました。

 色々な検査をして、結果が出たのは、午後3時を回った頃でした。


 診察室に招かれて、3人で主治医から、検査の結果や、今後の治療方針を、絶望的な気持ちに成りながら聞いて居りましたら、妻が主治医の言葉を遮る様に、

 「先生ぇ!ほんで、手術せなんだら、どのくらい生きられるんですか?」と、切り出しましたので、主治医が、驚いた様な表情を浮かべながらも、「半年」と答えますと、

 「そぉですかぁ・・・話しに成りませんわぁ。なんとか産むまで伸ばして貰わんと・・・。」と、強めの京言葉で言った迫力に押されたのか、主治医が返答に詰まって居ると、

 「うちが、長生きできへん言ぅんは分かりましたしぃ、お腹の子ぉだけでも助けて遣ってくださいなぁ!」と、言いましたら、主治医が、


 「奥さん、まぁ落ち着いて・・・助からないと決まった分けでは在りませんから・・・手術をすれば完治する可能性は充分在ります。私等も全力を尽くしますから、任せて戴けませんか?」と仰いますと、妻が、

 「あきませんわぁ・・・そんなん出来ぃしません!・・・子供を堕して、ちぃとだけ長生きするんやったら、産んで、すぐに死んだ方が益しですわぁ・・・もし、神様が御許しになったかて、うちの信仰が許さへんのんですぅ!」と、言い放ち、暫くの間、決して歩み寄る事の無い、妻と主治医の遣り取りが交わされました。

 私は、むずがる娘を構いながら、何も言えぬまま、二人の遣り取りを聞いて居ました。

 前の日に、主治医から病状の説明を受けた時、妻が、こう言い出す事は、大方予想が出来て居りましたので、妻に、話す事が出来なかったのでした。

 カソリックでは、堕胎をする事は、殺人を犯すのと同じくらい罪深い事で在るとして居りますし、深い信仰心を持つ妻が、どちらを選ぶかは明確に分かって居りました。


 二人の遣り取りは、主治医が妻の頑なまでの押しに根負けし、治療方針を他の医師と再検討するので、元々の診察予定日だった、翌週の月曜日に診察に来る事で折り合いが付き、その日の診察を終えました。


 帰り道、車の運転をしながら、黙ったままで居る事が耐えられなかった私は、

 「ほいじゃが・・・頑固で、融通の利かん先生じゃのぉ!」と、私が切り出しましたら、妻が、

 「そぉやなぁ、お医者さんは、あんなんでえぇんとちゃぁぅ・・・患者の言ぅなりに成ってはったら仕事にならんやろしなぁ・・・。」


 「まぁのぉ・・・じゃが、先生も、あんたん事ぉぉ、頑固な患者じゃ言ぅて、絶対に看護婦さんやらと言いよるでぇ!」と、笑いながら言いましたら、「そゃそゃ!」と笑いましたので、後は、堰を切った様に、他愛も無い話をして笑いながら、マンションに帰ったのでした。・・・ アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-02-21 20:58 | 想い出

水を買う時代5

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 京都 衣笠山  


 夏休みが終わって、秋に成った頃には、すっかり大学生活が板について、友人も増え、友人の勧誘により、サークル活動にも参加 ( 間が無くて滅多に出れませんでした ) したりして、学生らしく成って居りましたが、京都の水には馴染む事が出来ないで居りました。


 アパートでは、ドライブインで戴いた井戸水を使って居りましたが、大学へ行って居る時など、喉が渇くと困りますので、お茶を沸かしたモノを水筒に入れたり、水をそのまま水筒に入れたりして、持って行って居りました。

 今は、小学生が、水筒を下げて通学するのは、普通の光景と成りましたが、学生が、水筒を下げてキャンパス内をウロウロして居る光景は珍しく、奇異に映ったと思います。

 「喉が渇けば、ジュースでも買えば良いだろう。」と、思われるかも知れませんが、苦学生とは言え、ジュース代までケチる心算は無く、当時、古武術の大会の、体重別の試合に出場して居た私は、カロリー制限をする必要が在り、当時、販売されて居た飲料水は、全て糖類が使用されて居りましたので、これを飲む事を控えて居り、私も、水筒を下げてキャンパス内をウロウロする事を、友人達から笑い者にされて居り、少し恥ずかしいとは思いながらも続けていました。


 私の大学は、当時、京都の私立の大学の中で授業料が最も安く、『すさい』(ダサい)と評されて居りましたが、その中でも、一番『すさい』学生だったかも知れません。

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 伊藤園の缶入りウーロン茶




 そんな時、良い物を見付けました。


 スーパーへ買い物に行った際に、お茶で有名な
伊藤園 が、缶入りウーロン茶の試飲販売をしていたのでした。

 売り子のお姉さんの話では、世界初の技術との事で、ウーロン茶 は、当時、人気アイドルだったピンクレディー が使っていると言う事で知名度も人気も上がって居りましたし、昔から、占に付随した知識として、漢方薬の事も学んで居りましたので、痩身の効能 も存じて居り、試飲したら味も好く、料金も安かった為、3箱も箱買いして仕舞いました。


 翌日から、カバンに3本ほど入れて行き、学食で弁当を食べる時に取り出して飲み始めますと、

 「ハッシー ( 学生時代の私の愛称 ) 、何飲んでんの?」と、友人が聞きましたので、

 「これか、きんにょぅ ( 昨日 ) スーパーで売りよったんじゃ・・・缶入りの烏龍茶よ、新製品なんじゃと。」 と言いましたら、

 「えぇぇっ!これ、お茶かぁ?・・・こんなん売っとんや・・・へぇーっ。」と、缶を手に取って、まじまじ見ていますと、別の友人が、

 「茶ぁなんか、わざわざ缶に入れて飲むもんちゃうやろ・・・勿体無いわぁ。」と笑いながら申しますと、周りに居た5~6人も、そうだそうだと言わんばかりに、賛同して笑いました。

 「ハッシーは、おもろいなぁ、いっっも変わった事ばっかりして・・・喋りも変やしなぁ。」と、他の友人も笑いましたので、

 「 何ぃぬかしゃぁがんなら! 広島じゃぁ此れが普通よぉ!・・・カープが優勝したけぇ言ぅて、儂に、あたがりゃぁがって! ( 八つ当たりをして ) 」と、笑いながら言いました。


 とは言いましたが、当時の広島でも、私の様に濃い広島弁を使う若者は居らず、京都の街中で友人と会話をして居りますと、喧嘩をしていると勘違いされる事も屡でした。


 カープ は、前の年の79年に、江夏の21球 として知られる近鉄バファローズ との死闘を制して、悲願の日本一を達成し、この年の日本シリーズも連覇 したばかりの全盛期 で、あの頃、私は上機嫌で過して居りました。・・・ アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-02-11 23:24 | 想い出

水を買う時代4

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桂川を渡す渡月橋


 桂川 は、京都市左京区広河原と、南丹市 美山町佐々里の境に位置する、佐々里峠に源を発し、京都市右京区京北地区の流域にかけては、上桂川(かみかつらがわ)、南丹市園部地区に入ると桂川、南丹市八木地区から亀岡市 にかけては大堰川(おおいがわ)、亀岡市保津町請田から京都市嵐山までは保津川(ほづがわ)と呼び名を変え、嵐山から再び桂川と呼ばれます。

 広島市を流れる、太田川 は、市内に入ると、太田川放水路旧太田川天満川京橋川元安川猿猴川 の、6本の川に分流し、其々別称で呼ばれますが、源流が分流するまで、別称で呼ばれる事は在りません。

 その為、支流は別として、私には、流れている場所によって、同じ川が、別の名前で呼ばれると言う概念が無かった為、当分の間、その事が理解できず、桂川の上流を、バイクでツーリングした時などに、川の名を示す掲示板などを見たり、土地の人に道を尋ねたりする際、随分と戸惑って居りました。

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 鴨川の風景


 
 桂川は、鴨川 と共に、京都の街を流れる代表的な川です。


 この二本の川は、京都外環状線の辺りで合流して桂川と成り、京阪本線の橋本駅の辺りで、木津川宇治川 と合流し淀川 と成り、やがて大阪湾へと流れて行くのでした。


 桂川も鴨川も、街の中心部を流れているにも関わらず、とても美しい川です。

 淀川の上流域に在ると言う事も在りますが、古より、川を愛し、水に対する意識の高い、京都の人々の心の現れだと感じて居ます。

 もし、桂川や鴨川を水源として水道事業を行っていたら、京都の人達は、私が亀岡で飲んだ様な、美味しい水道水を飲む事が出来たでしょう。

 しかし、桂川も鴨川も、水量が多い川では在りませんし、関西一宴を潤せる程の水源とは成り得ません。

 日本一の水源でも在る、琵琶湖を水瓶とする、京都や大阪では、いかなる渇水の年でも、断水が行われた事は無く、人々も産業も、その恩恵を十二分に受けて経済発展を遂げて来ました。

 それは、水道事業を始めた、明治政府の思惑通りだったでしょうし、当時は、琵琶湖の水もきれいで、飲み水に適して居たのだと思います。


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 からふね屋珈琲店  



 学生時代の、お気に入りの珈琲店は、からふね屋珈琲の三条本店 でした。

 珈琲や飲み水に、清水の湧水を使用していて、キリマンジャロが私の好みでした。

 「美味しいモンを作ろう思たら、美味しいモンを食べなあかん。」と、オーナーが仰って、京都の飲食店や喫茶店に、よく連れて行ってくださいました。

 からふね屋にも連れて行って戴いて、私の好みに合って居ましたので、時々、利用させて頂いて居りました。

 どうしても、からふね屋の珈琲の立て方や、ダッチ珈琲の立て方が習いたくて、オーナーが狩猟しかしない冬の時期に、オーナーから許可を戴いて、3か月だけ、からふね屋のアルバイトとして働いた事も在りました。

 オーナーは、鷹揚で太っ腹な方で、「勉強しに行くんやから」と仰って、私が、からふね屋のアルバイトとして働いた時間分を、ドライブインのバイト料として加算して下さいましたので、スキルアップと共に、副収入を得る事が出来、本当に助かりました。

 私が貧しい苦学生だったので、情を掛けてくださったのだと思います。

 とは言え、高校時代に、漁船の乗り子として稼いだお金で買ったバイク にも乗って居ましたし、そもそも、本当に貧乏だったら、大学どころか高校にさえかよえませんから、極貧と言う訳でも無く、実家が経済的に厳しい状況だったのに、我儘を押し通したとも言えますが、『仕送りやらぁしちゃれんが、学校だきゃぁ行っちょけ。』と、両親は毎月、沢山の魚を送って応援して呉れて居りましたし、子供の頃から、必要な物は自分で稼いで手に入れるモノだと考えて居ましたので、特別な事だと感じて居りませんでしたし、友人も沢山出来て、良い学生時代を過ごしました。


 20年ほど前に、広島サティー がオープンした際に、からふね屋の広島店が出店した事が在りました。

 いち早く、その情報を掴んでいた私は、広島サティーのオープン当日に、真っ先に、からふね屋へ行って、珈琲を注文しました。

 水も、毎日、京都から取り寄せているとの事で、私が、京都に居た頃と変わらない味わいに感激しました。

 しかし、4階の子供服売り場の隅に在って、フードコートと変わらない造りに成って居る為、喫茶店としての趣に欠け、「此れじゃと、長ぁ事、持たんじゃろぉのぉ・・・。」と、感じて居りましたら、日毎に客足が減り、残念ながら、1年余りで閉店されました。

 美味しいモノを提供する事と、店が流行ると言う事は、一致しない場合が多い様に思います。


 閉店する、最後の日にも行って、珈琲を戴きながら、沁み沁みと、学生時代の事などを思い出して居りました。・・・アジアの片隅より


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by asianokatasumiyor | 2015-02-10 23:22 | 想い出