占術・三元派北斗流推命術の継承者として、世の中で見聞きし出会った事を、日々綴って参ります。


by 魚のおじさん
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年末だからこそ…

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  歳末の中央市場



 よいよ、大晦日になりました。 



 民族の大移動・・・既に実家に帰省されて居る方、現在、移動中の方、海外に渡航される方、或いは、大掃除の真っ最中だったり、自宅で、のんびりされて居られる方も御座いましょうし、私の様に、仕事をされて居られる方も大勢いらっしゃるでしょうし、殊に、商店やデパート等は、将にかき入れ時で、繁忙の極みと御察し致します。



 私が、子供の時分には、年末の大掃除を済ませると、どの隣家でも、お墓参りを兼ねて、墓所の掃除に参りました。



 そして、元日の未明に、氏神様に初詣に行き、夜が明けてから、お墓参りをするのが毎年の習慣でした。



 しかし、私の生まれ育った地域でも、こうした光景を見掛ける事は、殆んど無くなりました。







  自家の墓所は、自分を産み育てて呉れた両親や、幼い頃溺愛して呉れた祖父母をはじめ、自分に生命を引き渡してくださった御先祖が、生前に依り代とされておりました、肉体の大本である、遺骨を納め、土へと還す聖域で在るとともに、先祖崇拝の対象物であり、「血族の根」とでも言うべき一家繁栄の根幹です。





 私は、事在る毎に、 『どうか出来る限り頻繁に、家族全員でお墓参りをなさってください。』 と、誰彼となしに申し上げて居りますが、一般的には、祥月命日(祥月とは一周忌以後の亡くなられた当月の事で、祥月命日とは、亡くなられた月日に当たる毎年の同じ月日の事で、通常は命日と呼んでおりますが忌辰とも言います)を中心にお参りをなさる方が多い様です。




 一年を通して申し上げますと、年始に寺社へ初詣に出掛ける方は相変わらず多いのですが、最近は年始にお墓参りをなさる方の姿を見掛ける事は少なく成りました。


 春の彼岸は、春分を中日とした前後7日間を言い、初日を彼岸入り、終日を彼岸明けと言いますが、彼岸は、正式には彼岸会と申しまして、先祖を偲び報恩に感謝して、自らも精進する事を祈念する仏教行事です。



 彼岸は梵語(サンスクリット語)のparamitaを音訳した波羅蜜多の漢訳「到彼岸」からきており、迷いの世界である此の世の「此彼岸」から、悟りの世界である「彼岸」に至ると言う意味であり、彼岸会は、本来は悟りを開く為に仏道に精進する行事でした。


 お盆と言うと、8月15日頃を思い浮かべる方が多いと思いますが、本来は太陰暦(旧暦)の7月15日を中心に行われて居りました、先祖の御霊を祀り、冥福を祈る仏教行事である盂蘭盆会の事を呼んで居りました。


 明治時代に入って、太陽暦が使われる様に成ると、7月15日(旧暦の6月初旬頃)が農繁期にあたるため、一か月遅らせて、太陰暦の7月15日に近い、8月15日頃(これを月遅れの盆と言います)に行う事が多く成ってきました。



 地方によっても異なりますが、概ね7月13日から7月16日までの4日間と、8月13日から8月16日までの4日間に行い、初日を迎え盆(盆の入り)、終日を送り盆(盆の明け)と言います。




 盂蘭盆は、梵語のullambanaの音訳で、逆さ吊りの苦痛の意であり、釈迦の十大弟子の一人である目犍連 が、母が死後、餓鬼道に堕ちて飢えと渇きに苦しんでいる事を知り、釈迦に伺った処、供物を備えて法要を行う様にと教えられ、教えに従って法要を執り行うと、母が餓鬼道の苦しみから救われた事に由来しています。



 あとは、秋の彼岸(秋分を中日とした前後7日間を言います)と、先にも申し上げました年末にお墓参りをされる事が、一般的なお墓参りの時期として定着している様です。


 『出来る限り頻繁に』 と、申しましたが、毎日とは申しませんが、可能であれば月命日(毎月の命日と同じ日の事で月忌とも言います)毎に、お墓参りをなさるのが宜しかろうと考えて居ります。


 これ以外にも、御出産や進学や就職や婚姻などの喜び事のあった時などに、お墓参りをなさって、墓前に向かって手を合せ、御報告申し上げて喜びを分かち合う事も大切だと思います。


 また、何か悩み事などの有る時に、お墓参りをなさって、墓前に向かい手を合せ、 『 願いを叶えてください。』と、拝む ( 墓前では、先祖の冥福を祈り、報恩に感謝し、自らの誓いを立てて、それを見守ってくださいと、お願いしてください。祈願は、神社や寺院でなさってください。 ) のではなく、在りし日の姿を思い浮かべながら、 『このような時、父母なら、祖父母ならどうされただろう。』と、無心で手を合わせて居りますと、不思議と良い試案が浮かんでくるもので御座います



太宰府天満宮の初詣の光景

太宰府天満宮の初詣の光景  


 どうか、正月休みの、この機会に、御家族全員で、お墓参りをなさってください。


 年末にお墓参りをなさって一年の無事を感謝し、年始に一年の抱負を祈念する事は、態々、遠方まで出掛けて行って、自家の旦那寺や氏子でも無い有名な寺社に参拝するよりは余っ程大きな功徳が在ると感じて居ります。



 子は親の姿を見て育ちます。




 親が祖先を敬い、手を合わせなければ、決して手を合わせる大人には育ちません。




 親が祖先を敬い、手を合わせる姿を見せる事に因って、いつか御自身も、手厚く供養される事へと繋がり、大きな功徳を積み、一家が子々孫々に渡って繁栄して行く事へと繋がって行くのだと考えて居ります。



 これは、どの様な、宗教や宗派で有っても、共通する事だと感じて居ります。


 新たな年が、皆様一人一人にとって、我が国にとって、世界中の人々にとって、実り多く、笑顔の溢れる年となる事を、心から祈念致して居ります。・・・ アジアの片隅より



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by asianokatasumiyor | 2014-12-31 21:55 | 感じた事

12月25日と言う日

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   広島ドリミネーション


 漸く、クリスマスのイベントシーズンが終わり、一夜明けただけで、街も人も、師走の慌ただしい空気に包まれた様です。

 私は、此の処の、少しばかり沈みがちだった気持ちを、忙しい日々の生活に身を委る事で、盛り上げる事に勤めています。


 クリスマスが近付くと、妻の事ばかりを考えて仕舞います。



 妻と初めて出会ったのは、私が友人に誘われて、時々参加していた、京都学生ボランティア協会が運営に協力していた、障がい児施設の、秋祭りに参加した時の事でした。

 ダム女 ( ノートルダム清心女子大学 )の英文科に通う、二つ年下で、祖母も母親も、敬虔なカトリックの信者だった事から、彼女自身も強い信仰を持っていて、幼い頃から、ボランティア活動に携わっていた様でした。


 私の場合は、ボランティア活動に参加していたと言っても、大学の講義と、柔道整復師の夜学と、アルバイトに通うので手一杯でしたから、他の学生の様な暇は無く、ボランティア活動に情熱を燃やしていた、「ちきりや」 の息子に頼まれて、障がい児施設の、祭りなどのイベントの時に駆り出され、模擬店で売る饂飩の葱を刻んだり、みたらし団子を焼いたり、かき氷を作ったりするのが私の役割でした。


 女優の常盤貴子さんと、元桃色クローバーZで、現在は女優をされている、早見あかりさん との中間くらいの容姿で、とても清楚で、大人しく、目線が合うのが怖いくらいに感じて居りましたので、たまに話し掛けられる機会が在っても、下を向いてしか話しをする事が出来ませんでした。

 あの頃でも珍しく、いつも、口紅さえつけないスッピンでしたが、象牙の様に艶やかな白い肌は、そんな物は邪魔にさえ思えました。

 私だけで無く、男子学生は、彼女を前にすると、皆そうでした・・・彼女は、そんな特別な存在でした。

 
 私は、彼女に、特別な好意を抱いていて、最初の内は、渋々参加していたボランティア活動でしたが、彼女に会う為に、出来る限り、参加する様になって居ました。

 しかし、そんな風ですから、親しくも成れる筈もなく、4回生の時の交通事故の影響で、一年遅れで卒業し、大阪の証券関連の会社に就職してからは、彼女に会う機会は無くなったのでした。


 将に、高嶺の花で終わりました。



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  Anne of Green Gables


  たった一つですが、印象深く覚えている出来事が有ります。


 とある養護学校の、夏祭りの応援に行った時、私はいつもの様に、模擬店で、かき氷を売って居りました。

 そこへ、彼女と、数人の女子学生が小走りで遣って来て

 「あったわ、あったわぁ!・・・みんなが、美味しい言ぅて、言ぅたはった!…蜜も、土師はんが作らはったんやてぇ。」と、オカリナの様な声で言いながら、紙に、赤いマジックで書いた御品書きを見るなり、

 「ぅわぁっ! この苺、マリラの苺水って言ぅんやぁ! Anne of Green Gables のやねぇ…。」と、オカリナの様な声で言いながら、 

 「土師はん、Anne of Green Gables 好きなん? うちも、アンの話、好きなんよぉ!」と、オカリナの様な声で言ぅのを聞いて、漸く、彼女が言っている、Anne of Green Gables と、言うのが、「赤毛のアン」の事だと、初めて理解出来ましたので、 「ウン」と、俯いて答えると、

 「へぇー、そおなんや、…じゃー、それ、ちょうだい。」と、別の子が言って、200円を出しましたら、彼女も、他の子達も、「マリラの苺水」と名付けられた、苺のかき氷を、次々と注文しました。

 私は、過呼吸にでもなりそうな、息苦しいほどの胸の高鳴りを感じながら、彼女に、自分が作った物を食べて貰えるという不思議な喜びを、シャラシャラと言う、手回しのかき氷器の音で増幅させながら、一世一代の勝負に挑む様な気持ちで、出来るだけ早く、出来るだけ形よく、出来るだけ美しく、彼女が食べる、かき氷を仕上げました。

 私は、ナイトが姫に花束を渡す様な感じで、かき氷を手渡して、何故か普段は使わない関西弁で、 「おおきに!」 と、思わず言って仕舞いました。

 たぶん、彼女は、「おおきに。」とか何とか言っていた筈なのですが、私の耳に、記憶は在りません

 彼女は、私が作った、かき氷を、友達の女子学生達と、嬉しそうに燥ぎながら、美味しそうな笑顔で食べておりました


 ほんのりと、苺色に染まって行く、彼女の唇の艶やかな煌めきの眩しさが、目に染み入って、今も尚、心から失われることは有りません。


 きっと、他にも、彼女の思い出は有った筈なのですが、学生時代の彼女を思う時、あの時の光景しか、思い出す事が出来ないのでした。


 きっと、此の出来事が、『食に纏わる記憶』だからではないかと思うのです


 「アクシデントカップル」と言う、私が一番好きな韓国ドラマが在ります。

 素敵で意味深いセリフが散りばめられた、ホッとするラヴコメディーです。

 「驚かないでくださいね?…なんと、人間は…食べなきゃ死ぬんです。」
と、言うセリフが、ストーリーの分岐点で、何度も語られます。



 「食」は、命に直結し、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚の全てを使い、その全てをダイレクトに刺激しながら、その瞬間の情景や感情と共に、脳裏に強く焼き付けられます。

 だからこそ、『食に纏わる記憶』を、誰もが強く、心に抱き続けているのではないかと思うのです。


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  聖母マリア


 12月25日は、妻の命日です。 


 一昨日の、クリスマスイヴは、魚や野菜の仕入れをし、食材の下拵えを終えると、早々に仕事を早引けさせて貰って、新幹線で京都へ向かいました。

 妻の実家(老舗の茶舗を営んでいます)を訪ね、久し振りに、娘に会いました。

 娘は、妻が病気で入院した、2歳の時に、義父母に預かって頂き、妻が亡くなった後も、そのまま義父母の下で育てて戴き、現在は、義父母と、後を継いだ、義妹夫婦との5人で暮らしながら、職場である病院に通っております。

 如何せん、私の様な、小不細工な男の血が混ざりましたので、妻ほどの美貌は在りませんが、良い娘に育ちました・・・ただ、母親と同じ様に、強い信仰心をもったクリスチャンなので、多少、心配しておりますが・・・。

 私が育てていたら、生活自体も成り立たなかったでしょうから、義父母には、ほんとうに感謝して居ります。 


 娘と義母の3人で、夕刻、近くの教会で行われた、ミサに参列して、賛美歌を歌いました。


 翌日は、娘と義母と義妹夫婦と共に、妻の、お墓参りに行きました。


 妻の、お墓は、先祖代々の墓石が並ぶ、実家の墓所の程近くに在ります、曾祖母の墓石が在る同じ塋域に在ります。

 曽祖父が、京都帝国大学(現・京都大学)の学生だった頃、敬虔なカトリックの信者だった曾祖母と恋に堕ち、親の大反対を押し切って結婚された証です。


 妻を想いながら、手を合わせて居りましたら、結婚する時に、義父から言われた言葉を思い出しました。


  「ワテの、お父ちゃんも、そぉやったし、いずれはワテも、そう成るんやろけど、娘と結婚したら、(死後に)同じ、お墓には入れまへんでぇ。」と、笑って居られました


 『まったくのぉ・・・。』と、思いながら、心の中で、苦笑いしました。


 義父は、お見合い結婚で、曾祖母が、教会のミサで度々会う機会の在った、敬虔なクリスチャンの義母を見初め、「是非、うちの息子の嫁に…。」と切望して、有無を言わさず、お見合いをさせられ、その日の内に、結納と結婚式の日取りが決められると言う、絵に画いた様な、因習に則った結婚をされました。

 私の場合、土師氏 と先祖を同じくする、菅家が祀られた、太宰府天満宮の氏子で、実家も私自身も、日蓮宗の門徒であり、更に、四国の石鎚山で修験道の修行まで行っていると言う、極め付けの身の上でしたから、義母から大反対された末に結婚致しました。

 しかし、誠意をもって何度もお話しをして行く内に、結婚を認めてくださり、その後は、「ウチにも息子が出来た。」と、仰って、今も尚、実の息子の様に接して戴いております。


 お墓参りを終えると、精進落しも兼ねて、私が、河豚の調理免許を取得する為の修行をさせて頂いた頃から、御付き合いの在る、老舗料亭で、妻の想い出話などしながら、会食を致しました。

 その後、手術後の療養を兼ねて、入院されている義父を見舞い、その足で京都駅へ、独り、タクシーで向かいました。

 義母は、そのまま義父の看病に残り、娘と義妹夫婦が、見送りを申し出て呉れたのですが、どうも、そう言うのが、苦手でして、丁重に御断りした次第です。


 広島に着いた頃には、陽もトップリと暮れて、京都に負けないくらいの冷たい風が吹いて居りましたが、マンションに向かう、路面電車が、停留所に止まってドアが開閉する度に、潮風の匂いが次第に強まる毎に、ホッとして、鼻から深く息を吸込みました。


 あれから、24年が経ちました。


 娘も、26歳になり、妻以上に、私より背丈が高く成りました。

 私は、チビでデブでハゲの、足の不自由なオジサンへと、劣化の一途を辿っています

 写真の中の妻は、永遠に若く、私の記憶の中で、益々美化されている様にも思えます。


 僅か、3年余りの短い結婚生活でしたが、愛娘と共に、掛け替えの無い想い出を、沢山残して逝きました。
 
 初めて作って呉れた夕食の献立や、広島弁が通じなかった所為で、意志の疎通が出来ずに行き違って口論に成って、半月、口をきいて貰えなかった事等、今と成っては、何物にも替え難い想い出と成りました。


 結婚した年は、広島市内に在る教会の、クリスマスイヴに行われたミサに、お腹に娘を宿したまま、二人で参列して、賛美歌を歌いました。

 次の年は、私が娘を抱きかかえて、クリスマスイヴに行われたミサに、三人で参列して、賛美歌を歌いました。

 その次の年は、ヨチヨチ歩きの娘の手を引いて、クリスマスイヴに行われたミサに、三人で参列して、賛美歌を歌いました。


 結婚3年目の、クリスマスイヴには、意識も息も絶え絶えの中で、ただ一言、「ありがとう」と、呟いて、そのまま意識を失って、12月25日の未明に他界致しました。


  その日以来、クリスマスが近付くと、妻の事ばかりを考えて仕舞います。


 恥と後悔ばかりの半生を、経て参りました。 


 「世の光のために生きてください。」 と言う、妻の、途方も無い遺言に沿う後世を歩む事など、到底出来そうには在りませんが、ほんの細やかでも、世の中の役に立ちながら、ほんの僅かでも誰かの喜びとなりながら、世の全ての人の幸福を祈念しながら、慎ましく在りたいと願って居ります。・・・アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2014-12-26 21:51 | 想い出


 焙じ茶のかき氷



 ブログのプロフィール欄に、自慢出来る事として、「たぶん、日本初となる かき氷用ほうじ茶シロップ を 学生時代に考案した」と書きましたら、数人の方から、『レシピを教えて欲しい』と依頼が在りました。

 『私などに聞かなくても、濃い目の焙じ茶を作って、砂糖を多目に入れれば出来ますよ。』と、伝えたのですが、『どうしても!』と、仰るので、御教えする事にしたのですが、メールで伝えるのに、どの様に書いて良いモノか分かりません。

 私のレシピ帳をコピーして送るには、住所も存じ上げませんし、それを聞く事も憚られます。

 そこで、いつも拝読して居るブログに習って、レシピをブログに掲載する事に致しました。


 焙じ茶のシロップは、30年余り前、私が京都の駅弁大学に通っていた頃に考案したレシピです。

 但し、当時、私の知る限り、何処にも無かったと言うだけで、本当に日本初なのか否かは定かでは有りません。

 私の友人の実家が、「ちきりや」と申します、老舗和菓子店を営んで居ました。

 大そう釣り好きの親父さんで、私が漁師の息子と聞いて、釣りの話で盛り上がり、時折、両親が送って呉れる鮮魚が届いた折りに、親父さんに御裾分けしたり、親父さんに誘われて、鮎釣りの手解きを受けたりと、寧ろ、息子とよりも親しい間柄でした。

 料理好きの私が、『餡子の炊き方や和菓子の作り方を習いたい』と、お願いしますと、快く引き受けてくださいましたので、大学の講義と、ドライブインでのアルバイトが無い時に、無償で御手伝いをさせて戴いて居りました。

 「ちきりや」では、夏期に入ると店先で、かき氷を販売しており、私は親父さんから、バイト料の代わりに、自由にかき氷を食べて良い許可を頂いて居りましたので、かき氷好きの私にとって、バイト料に勝るまかないで、手伝いに行った日は、和菓子作りの手解きを受ける合間を見付けては、かき氷三昧の一日を過ごして居りました。

 元々、濃い目の焙じ茶に、砂糖を溶かして、それを冷たく冷やして飲むのが、私の夏の定番だったのですが、ふと思い付いて、此れをかき氷にかけて食べた処、実に美味しく、親父さんに試食して戴いた処、

 『いやぁぁ、実に美味しいおすなぁ…よぉ気が付きはりましたなぁ!』と、お褒めの言葉を頂きました。

 此れに気を好くした私は、レシピに改良を加えて、ドライブインのオーナーに試食して戴き、即決で店のメニューに採用されたのでした。

 「利休の焙じ茶」と名付けられた、焙じ茶のかき氷は、その夏、ドライブインの喫茶部の大ヒットメニューと成り、オーナーから3万円の賞与を頂いたのでした。

 私には、自分で考案したすべてのメニューに、それをイメージした独特の名前を付ける習慣が在りまして、「賢治のホタテスープ」とか、「ローランサンの薄荷水」とか、「マリラの苺水」とか、色々在りまして、他の料理人から、『顔に似合わずロマンチスト過ぎる』と、新作を考案する度に笑い者にされるのでした。

 店で働いて居る間に考案したレシピは、譬えアルバイトと言えども、店の財産でで有り、他に漏らさないのが、「料理人の掟」 ですが、恩人で在るオーナーは、随分前に亡くなられ、それを期に廃業されましたので、求めに応えてレシピを公開いたします。(それほど大そうな代物でも在りませんし…)


・・・・・ 焙じ茶のシロップ ・・・・・


  ~ 食材 ~

       焙じ茶 (40~100g)

     水飴 (250g程度)

     砂糖 (400g程度)

     塩 (2g程度)

     水 (1ℓ程度)



 
・・・・・・食材への拘り・・・・・



☆ 焙じ茶 (40~100g)と、かなり曖昧な分量になっています。

 此れは、好みに由って分量を調整すると言う事も有りますが、焙じ茶の種類に由って、同じ分量で在っても、抽出される茶の、香りや濃さや味に、大きな差が生じるからです。

 私は、加賀棒茶を使います。

 加賀棒茶は、焙煎の度合いが浅いため、香りが甘く柔らかですが、一般的な焙じ茶に比べ、渋みがやや強いという特徴が有り、少量でも風味が強く濃い茶を抽出する事が出来ます。

 焙じ茶には、使用する部位や生産される地方や製法に依って、焙じ番茶・京番茶・雁ヶ音焙じ茶・焙じ煎茶などが在りますが、何れが優れていると言う事は無く、全て好みの問題で、各々の嗜好に合った物を選んでください。

 試作品として、最高級の焙じ煎茶を使用して、焙じ茶のシロップを作った事も御座いますが、確かに香りも風味も別物のシロップが出来はしましたが、あくまでも好みの違いであり、50グラムが1万円近くもする焙じ煎茶を使ったシロップを、一杯300円のかき氷にかけて出したのでは採算が合いませんし、『これは、焙じ茶として、飲むべき物であって、シロップに使用する事は、大変な手間と、熟練の技で、焙じ煎茶を作られた職人の方々に失礼だ。』と、感じました。

 尚、私のレシピは、加賀棒茶40gを基準として居りますので、予め考慮してください。

☆ 水飴は、シロップに適度の粘り気を持たせ、甘味よりも、口に含んだ時の、風味や触感を得る為に使用します。

 私は、金沢の老舗である俵屋 の じろ飴を使いますが、スーパーで売られている商品で十分だと思います。

 量が多いと粘り気が強くなり、かき氷にかけた時に染み込み難く、シロップの味をより強く感じ、少ないと氷に染み込んでスッキリした触感になります。・・・使用しない物も、あっさりした触感が在り、私は好きです。


☆砂糖は、通常、グラニュー糖を使っていますが、上白糖でも構いません。

 試作品として、黒糖や和三盆糖を使った事も在りますが、独特の風味が出て良いのですが、シロップが濁りますので、見た目に難が在り、業務用としては不向きでした。

 味としては、とても魅力が在って良いので、興味が在れば試してみてください。

 グラニュー糖を使うと、スッキリした味になりますが、グラニュー糖には、低温になると、甘味を感じ難くなる性質が在ります。

 上白糖を使うと、まったりとした味になり、低温でも甘味を感じ易いので、それを考慮して、量を調整してください。

 この様に、食材の特徴や性質を知り、使い分ける事は、自分の狙い通りに料理を作る上で、とても重要です。


☆塩は、たったの2gとなっていますが、とても重要です。

 私は、料理に携わる中で、塩こそが、あらゆる調味料の中の王であると考えて居ります。

 1g 違うだけで、味の印象に大きな違いが生じますので、好みに由って調整される場合の扱いは、呉々も慎重に願います。

 一般の方が、拘る必要は無いと思いますが、私は、百姓の塩を使って居りまして、昔ながらの製法と情熱で作られた塩 で、流石に、余程の味覚と経験が無ければ、シロップに2g使う程度で違いを感じる事は出来ませんが、饂飩の出し汁や、漬物や煮物などに使いますと、風味に差が出るのでした。


☆水は、1ℓ と在りますが、全部は使いません。

 ミネラルウォーターか井戸水でしたら、そのままで構いませんが、水道水の場合は、5分程沸騰させて使用してください。


☆以上が食材に成ります。


 

 ・・・・・~ 調理器具 ~・・・・・


    焙烙 ( ほうろく ) 無ければ フライパ

    鍋☆ステンレス製の中型ボール

    大型のストレーナーまたは金属製の笊

    茶漉し☆大型のロート

    キッチンスケール・計量計 ( 1g単位で計測出来る製品、0.1g 単位なら尚好い )

    メジャーカップ ( 耐熱性のメジャーカップ ) 1ℓ 以上の容量のある製品 耐熱性でなくて可

    茶匙

    泡立て器

    口広の蓋の付いたガラス容器



  ~ 準備 ~


先ずは、手を丁寧に洗ってください。

 専用のブラシを使って、爪の隙間の汚れを落とし、指と指の間も丁寧に洗い、手の平だけでなく、肘の辺りまで洗ってください。

 料理に取り掛かる際は、その都度、能く乾かした清潔な専用のタオルを準備して、腰などに下げるか、すぐに拭ける様に、調理をする動線上の、一番手の届き易い所に掛けてください。

 割烹着やエプロンを身に着け、専用の帽子や三角巾で髪の毛を覆って、マスク迄しなさいとは申しませんが、調理中にクシャミや咳が出た際は、料理や食材や調理器具に、唾や息がかからない様に気を付けてください。

 調理の途中で、トイレに立ったり鼻をかんだりした後は、必ず、手を洗い直してください。

 身支度を整えて、調理に臨む事は、桂剥きを早く薄く出来るとか、誰からも美味しいと褒められるとか言った、料理の技術が向上する事以上に、大切な事だと、私は考えています。

 家の料理だからと言う訳でも無いのでしょうが、手もよく洗わず、適当な格好で料理をされるのを見るに付け、私は、とても切ない気持ちになります。

 私は、潔癖症では有りませんが、その様にした料理を頂きますと、確かに味としては良くても、より美味しくは感じません。

 「料理は見た目が大切と、よく申しますが、料理の出来栄えや盛り付けばかりで無く、こうした事も含まれている言葉だと思います。


 厨房 ( 台所 ) や 調理器具を清潔に保つ事は、料理に取り掛かる以前の問題で、清潔な厨房に立つと、自然に、身も心も引き締まります。


 
 曹洞宗の寺院の精進料理

 私には、料理に携わる上で、指針とする書物が在ります。

 「典座教訓・てんぞきょうくん」と申します。

 曹洞宗の開祖、道元禅師の手による、典座(禅寺の食事係)の心得や、具体的な調理方法や手順などを記した書物です。

 私が、3回生にに成ったばかりの頃、アルバイト先のオーナーが、「折角、うちで、真面目に頑張って呉れてるんやし、持っとっても荷には成らんさかいな。」と、仰って、調理師免許 を取りに行かせて戴いて、調理師の試験に合格致しました。

 調理師免許を取得する為には、調理師学校へ入学し、調理師の資格試験を受験するか、調理師免許を有する者の飲食店などで、2年以上、働いたという証明書を提出した上で、調理師の資格試験を受験する、二つの方法が在ります。

 その時、オーナーが簡素な合格祝いの席を設けて下さったのですが、その折に、いつも、実の弟の様に可愛がってくださっていた、料理長の善さんが、「えかったなぁ、お祝いの代わりや…これ、お前にやるさかい読んどきや!」 と、手渡して呉れたのが、「典座教訓」でした。


 「典座教訓」では、「喜心」「老心」「大心」の三つが重要で有るとして居り、「喜心」とは、相手の命の源となる食事を作らせて頂けることに感謝し、心から喜んで調理すする事です。

 「老心」とは、細やかな愛情を持って、全ての命や物を無駄にしない様にしながら、自己を忘れて相手に尽くす心で調理する事です。

 「大心」とは、相手の事を、相手の気持ちや立場になって考えながら、料理の作法も考慮して、偏りの無い冷静な心で料理する事です。


 典座の配膳の様子

 道元禅師は、南宋に留学したした時の二人の老典座との出会いにより、それまで、修行の妨げに成るとさえ考え、軽んじていた典座が、命を賭して修行する僧達の命を支え、修行を続けて行く為の活力を与える存在であり、典座自身も、その事に由って尊い修行をしている事に気付き、此れまでの自分の修行や学びが、間違っていた事を知るのです。

 この出会いが、曹洞宗の開祖となる礎となり、後に表した「典座教訓」は、日本の「食」を方向付ける大本と成りました。

 「食」を天職と感じて研鑽に励んで居られる若い方達ばかりでなく、奥様方にも、三ツ星店の料理長や、煌びやかな職業の方々が書かれた料理本を読む前に、780年程前から世に出て居りますので、熟読して戴きたいと願って居ります。



 古式に法って執り行われる四条流包丁式
 
 いつも忙しく家事を熟して呉れている母親が、普段着のままで料理を作ったからと言って、目くじらを立てて憤慨する家族は、滅多に居ないでしょうし、丁寧に手を洗わなかったからと言って、食中毒を起こす事も、滅多に在りません。

 我が国の古人は、食材の魚類や鳥類は、単なる生き物の死骸(穢れ)と捉え、その死骸を食べ物に変換させる清めの儀式として、包丁式が定められました。

 神に捧げる供物を、右手の包丁と左手の真箸(まなばし)のみを用いて、鯉や鯛、鰹、鮒などの素材に一切手を触れる事なく捌(さば)きます。

 日本人の衛生観念は、道元禅師が宋より精進料理を伝える遥か古より確立されていた様です。


 だからと言う訳では無く、食べくれる相手が、美味しいと笑顔で喜んでくれる姿を思い浮かべながら、心を込めて料理を作ろうとするなら、自ずと、身を清め、身形を整えようとするのではないでしょうか。

 私は、料理に携わる時、此の、相手を思う心が、一番大切なのだと考えて居りますし、その心を抱き続けてさえいれば、技術も向上し、きっと相手に伝わって、心から幸せを感じさせる料理が生まれるのだと確信して居ります。

 

 またしても、余談が長くなりました・・・本筋に戻ります。


☆焙烙が無い場合は、フライパンで十分ですが、付着している油分を落として、よく乾かしておいてください。


☆ガラス容器は、出来上がったシロップを入れますので、、洗って水気を切っておいてください。

 レシピ通りに作りますと、シロップは1ℓ 弱の量になりますが、大きな容器が無ければ小分けしてください。

 それを考慮して、必要な分量に調整してください。
 


 ・・・・・~ 作り方 ~・・・・・


鍋に、水500ccを入れて、沸騰したら中火にし、2分経ったら弱火にします。 

焙烙を使う場合は・・・焙烙をコンロにかけて、弱火で温めます。
 
・中心部分を指でつっっいて、触れないくらいの熱さになったら中火にします。

・1分くらい経ったら焙烙の上に、手の平を翳してみて、丁度良い頃合い(自分の感覚を信じろ!)になったら、焙じ茶葉を全部いれて、焼き飯を炒める要領で、軽く振りながら混ぜます。

フライパンを使う場合は・・・フライパンをコンロにかけて、中火で温めます。

・丁度良い頃合い(料理人のセンスでドンと行こう!)になったら、焙じ茶葉を全部いれて、焼き飯を炒める要領で、軽く振りながら混ぜます。

全体から薄っすらと煙が立ったら、火を止めて焙じ茶葉を鍋の中に素早く入れます。

ジュジュジュシュワァーッと、音がしたら大成功!…シューッだと少し浅いかも知れません。

すぐに火を止め、1分蒸らします。浅いと思ったら、1分半から2分蒸らしてください。

ストレーナー(金笊)を使って、焙じ茶を濾しながら、ボールに焙じ茶を移します。(一番出し)

・計量カップに、茶漉しとロートを使って焙じ茶を移します。

・耐熱容器でない場合は、粗熱を取ってから移してください。

・焙じ茶葉の種類に依って、水分を吸い込む量が違う為、出来上がる焙じ茶の量に差が出ます。

鍋に焙じ茶葉を全部戻し、水を入れて中火で煮出します。

・全体で、500ccを目指しますので、入れる水の量は、足らない分量に3割を増した量が目安になります。

中火にして沸騰したら、とろ火にして、10分~20分ほど煮出します。

・頃合いを見て火を止め、冷めるまで放置します。

ストレーナー(金笊)を使って、焙じ茶を濾しながら、ボールに焙じ茶を移します。(二番出し)

・計量カップに、茶漉しとロートを使って、500ccになるまで焙じ茶を移しします。

焙じ茶500ccを鍋に入れ、中火にして沸騰したら、とろ火にして、水飴を茶匙を使って容器から掻き出して鍋に入れ、泡立て器で泡を立てない様にゆっくりと混ぜ、溶け切ったら砂糖を少しずつ足して行き、溶け切ってから塩を入れて中火にし、沸騰したら火を止めます。

粗熱が取れたらロートを使ってガラス容器に移して出来上がりです。

(注) 冷めてからだと、粘度が強いため入れ難いので、少し熱い内に行ってください。



何度か、材料を変えたり、分量の配合を試してみて、自分の好みの味を探してください。

かき氷だけでなく、パンやパンケーキに塗って食べたり、お湯に溶かして飲んだり、此れに、レモンや柚子の果汁を入れて飲むのも美味しいです。夏場に、これを冷やして飲むのも美味しいです。

常温でも1ヶ月以上もちます。



 私がアルバイトをしていたドライブインで、「利休の焙じ茶」が大ヒットした為、次のシーズンには、京都や大阪で、「焙じ茶のかき氷」として模倣する店が激増しましたが、パッチモンの街とは言え、「利休の焙じ茶」として出している店は在りませんでした。

 そうやって、「焙じ茶」のシロップが、彼方此方に広まって行った様でした。

 「利休の焙じ茶の評判を聞き付けて、神戸や名古屋あたりからも、わざわざ食べに来てくださる御客様も多く居られ、御家族で来られて、楽しそうに召し上がる光景を見て、自分を誇らしく感じ、料理を作る喜びを知った、20歳の夏でした。・・・ アジアの片隅より


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by asianokatasumiyor | 2014-12-24 21:47 | 料理のレシピ

 朔旦冬至



  冬の夜空 

今日、平成26年12月22日は、二十四節気の冬至です。

 二十四節気は 1年を24に分けて季節の移り変わりをあらわしたもので、春は、立春 雨水 啓蟄 春分 清明 穀雨、夏は、立夏 小満 芒種 夏至 小暑 大暑。秋:立秋 処暑 白露 秋分 寒露 霜降、冬は、立冬 小雪 大雪 冬至 小寒 大寒に分けられており、太陰暦と密接に関連していると言うよりは、太陰暦の重要な要素であると言う方が正しいと思います。

 私が継承しております、三元派北斗流推命術は、古代中国の祖・黄帝の頃より伝わるとされる兵法を基に編まれており、占の四柱推命・奇門遁甲・天文遁甲に用いる暦法は、春秋戦国時代に完成されたもので在ると、師より伝え聞いて居ります。

 私の行った検証に依ると、現在一般に広まって居ります太陰暦と枝葉末節に差異は御座いますが、この差異は、時代の変遷と共に付け加えられたモノではないかと私は考えて居ります。

 占に用いる暦法では、冬至を年替わりとしており、占に於いては最も重要な日です。


 今年は、冬至と太陰暦の11月1日が重なる特別な年で、これを、「朔旦冬至」と申します。


 朔旦冬至は、グレゴリオ暦と太陰暦との兼ね合いから、通常は、19年毎に訪れるのですが、私が資料とした雑誌によると、次回の朔旦冬至は、19年後ではなく38年後の2052年になる様で、これは、旧暦2033年問題によるらしく、明治になって採用されたグレゴリオ暦と、天保暦(旧暦)との間に生じる矛盾なのですが、興味が御座いましたらウィキペディアを参照してください。

 私が占に用います暦法では、この影響は生じないので、安心して居ります。

 冬至では、北半球では太陽の高さが一年中で最も低くなり、昼が一年中で一番短く逆に夜が長くなります。

 冬至は、太陽の力が、最も弱まる日で在ると共に、太陽の力が、復活する日でも在ります。

 冬至は「一陽来復」の日で在り、転じて悪い事ばかり続いた後でも、漸く幸運に向う日とされ、日本やアジア圏ばかりでなく、世界中で冬至に纏わる民間行事や風習が在り、宗教的にも重要な日と位置付けられて居り、様々な祭事や儀式が執り行われます。




 冬至の定番  南瓜の煮物

 日本では、冬至を、阿吽(あうん)の思想に準えて、万物の終焉と再生を意味する「吽・ん」の音の付く食物を食べる事によって、健康に肖ろうとする風習が広く定着しています。

 南瓜(なんきん)・蓮根(れんこん)・饂飩(うどん)・蒟蒻(こんにゃく)等、様々ですが、冬至に南瓜を食べる風習が最も一般的だと思います。


 私の実家では、冬至にか否かに関わらず、南瓜の煮物は食卓に上がる事は在りませんでした。

 それは、父が南瓜が大嫌いだったからで、その代わりに、我が家では、冬至の日には、朝食に小豆粥を食べていました。

 母は、『これぇ食うたら風邪をひかんのんじゃけぇ、よぉけ食べんさいよ。』と、どんぶりに小豆粥をよそって呉れながら笑っていました。

 父は、>小豆粥を旨そうに食べながら、『今日ぉらぁ冬至じゃけぇ、余所の家じゃぁボーブラぁ食うんじゃろぉが、儂ゃぁボーブラ(広島弁で南瓜の事)がよいよ嫌いじゃけぇのぉ!と、言った後に、自分が南瓜を嫌いになったエピソードを話し始めるのでした。

 それも毎年の事でしたから、そのエピソードを、何十回聞いたか分かりませんが、既に父母は他界し、もう聞く事は出来ません。



 香り立つ広島の柚子

 冬至に柚子湯を仕立てて入る習慣も広く行われて居りますが、柚子の木は寿命が長く、病気にも強い為、此れに肖って柚子湯に入って無病息災を祈る風習になったと言われ、これが流行し始めたのは、江戸の銭湯からだと言われています。

 実際、柚子湯には血行を促進させる効果が高く、風邪予防に効果が在る事が医学的にも証明されて居りますし、柚子に含まれる香り成分には、高いリラックス効果も有る事も広く知られています。



 中国の冬至祭天礼

 周の時代(紀元前1046~同256年)には、太陰暦が確立されて、当時は、冬至を年の始まりとして居り、漢代(紀元前206~紀元220年)に暦法が改正され、正月一日を新年としましたが、周代から受け継がれていた千年来の歴史ある習慣は、国家の政令が変革されても断絶される事はなく、その後2000年以上、歴代皇帝は冬至に天を祭る盛大な儀式を行いました。

 その影響でしょうか、中国では、今でも、冬至は新年(春節)の如く大切であるとし、冬至節と呼び、庶民は神や祖先を祭った後に一家団欒して宴を楽しみ、国をあげて冬至節を祝います。



 クリスマスシーズン中のミュンヘン市街の風景

 
北欧を含むゲルマン民族は、冬至を、太陽が再び力強い生命を持つ聖日とし、新年としました。

 そして、この神聖な日に、ユールと呼ばれる祭りを行いました。

 この、ユールと、イエス・キリストの誕生日とされる12月25日(キリストの生誕日には諸説在ります)が結びついて、生誕祭(クリスマス)となりました。

 

 冬至の日は、冬の寒さに耐えながらも、世界中で、家族と過ごしながら、健康を願う行事が行われている様です。

 私は、広島の海岸べりにあるマンションの、小さな部屋で、一人暮らしをしています。

 普段は余り自炊をしない私ですが、今朝は小豆粥を炊いて仏壇に供えました。

 時々利用する銭湯の奥さんが、「冬至の日にゃぁ柚子湯をするけぇ来んさいよ。」と、仰って居られたのを思い出しましたので、、此れを書き終えたら銭湯に出掛けます。・・・
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by asianokatasumiyor | 2014-12-22 21:43 | 二十四節気

選挙の思い出 3

 
 故郷の山からの展望   遠景は広島市の金輪島と宇品界隈


 竹馬の友や家族の方々と、昔話に花を咲かせて飲み明かし、そのまま床をとって戴いて、目覚めたら昼前になって居りました。

 『おごうさん、内の宿六に、わりゃぁ、何しぃ帰ったんなら言ぅて、蹴り起しちゃって呉れんさい。』と、8時頃に、父から電話が在ったと、酔い覚ましの茶漬けと、漁師の家の酔い覚ましの特効薬、亀の手の味噌汁を善そって呉れながら、伯母さんが笑って居られました。
 『流石に、まあちゃんの息子じゃのぉ! 強いわいっ!』と、伯父さんが上機嫌で、コップ酒を遣っていました。

 未だ酒を覚え立ての、飲み方も味も分からぬ若造で、実の処、頭はガンガンで立ち上がる事さえ覚束無い状態でしたが、漁師の息子の意地だけが、体裁を保させて居りました。

 今は、アルコールの類は一切飲まない私ですが、その様な所で生まれ育ちましたので、就職する頃には、すっかり鍛え上げられて、酒豪と呼ばれる程に成長して居りました。

 伯父さんと伯母さんに鄭重に挨拶をして帰宅しますと、父も母も、既に投票を済ませて帰宅し、昼食の最中でした。

  
 私の顔を見るなり父が、
 
『おぉ!、はぁ儂等ぁ行って来たけぇ早ょぉ支度ぅしてお前も投票に行かにゃぁ…おごうさんにゃぁよぉ礼ぇ言ぅたか?…あがいに、こまかったのに、3人で酒が飲める様に成った言ぅて、うちのが言いよった言ぅて、喜んじょりんさったでぇ。』 と、父もコップ酒を遣りながら上機嫌でした。

(訳)『おぉ!、もう私達は行って来たから、早く支度をして、お前も投票に行かないと…奥さんには丁寧にお礼を言ったか?…あんなに幼かったのに、3人(伯父さん・友人・私)で酒が飲める様に成ったと言って、主人が言っていたと言って、喜んでおられたよ。』 と、父もコップ酒を遣りながら上機嫌でした。

 『おごうさん』とは、奥さんと言う意味で、幼馴染の家は、母方の本家筋に当たり、年齢も父より上であった事から、敬意を込めて、『おごうさん』 と呼んで居たのでした。

 映画「仁義なき戦い」からの影響も在ってか、広島弁には、「怖い」とか「汚い」とかのイメージが有るのですが、尊敬語や謙譲語も在るのでした。


 さて、すぐに支度を整えて、投票所となっていた小学校の体育館へ向かいました。

 係りの方の案内に従って、緊張した面持ちで投票箱に用紙を差し入れました。

 ゴールデンウイークに二十歳を迎えた時、バイト先のオーナーや友人が開いて呉れた誕生日会で、初めて酒を頂いた時以上に、大人に近付いた気が致しました。

 少し浮き浮きした心持で家へと帰りました。

 昨日の嫌な出来事も、すっかり忘れて仕舞って居たのでした。



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   昭和20年頃の町の景色  中央は駅舎と火力発電所 


 前の回で申しました様に、私の故郷は、小さな町だからこその、地縁と血縁が絡み合った、とても複雑で混沌とした、少々おどろおどろしい代物で、余所者が踏み込める余地の無い、排他的な側面をもった、しかし、親切でお人好しで情が深く温かい側面を持った、不思議な町でした。

 前の回、「町議会議員選挙は、その最たるもの」 と申しました。

 町議会議員は、広義に於いては、政治家で在るとも言えますが、各々の立場から、長年に亘って地域の為に貢献されたり、貢献したいと考えて居られる方が立候補されるのが通例と思いますし、有権者も、そうした方に投票し、より多くの有権者から支持された方が当選します。

 私の故郷の町では、少し違っていて、「親戚の多い者が勝つ」わけです。
 記憶が定かでは無いので恐縮ですが、議員定数は現在よりも多くて18名程だったと思います。

 そこに、20名が立候補して、2名が落選すると言う図式でした。

 人口は1万人余りで、確か300票程得票すると、余裕で当選出来たと記憶しています。

 それだけに、1票の重みが極めて重く、1票差で落選したケースが何度もあり、票取り合戦は熾烈を極めます。

 それ故、辻番を張ったり、遠方に出ている学生を呼び戻したりといった事が、極当たり前の風物詩として在るわけです。

 選挙事務所では、酒や御馳走が振る舞われるのが当たり前、全員がそうですから誰も訴える者も在りません。

 巷では「○○のとこじゃぁいくら配った」とか、「△△のとこへ、▲▲が頼みに行きよったんじゃげな」等の噂が囁かれます。



 こんな話が在ります。

 選挙期間中の、とある日の夕刻、某立候補者の選挙参謀が、ひょっこり訪ねて来て、

 『○○さん!あんた方の玄関の前ぇ通り掛かったら、これが落ちとりましたでぇ!』と、言いながら、一万円札を差し出します。

 例の聖徳太子の一万円札です。


 『いやぁっ、そがいなモンは、落とした憶ゃぁ無ぁぁですけぇ、他の人のでしょうてぇ。』と、家の主人が答えると、

 『何ぃ言いよりんさるんの!○○さん方の玄関の前に落ちちょったんですけぇ○○さん方のモンに間違い無ぁでしょぉけぇ取っちょきんさいやぁ。』と、握らせる訳です。
 
 
受け取る側にも暗黙の了解があり、選挙違反とか、贈収賄になる事は理解しているのでしょうが、悪意も罪の意識も無いのでしょう。


 「当初は、親戚の○○に投票する心算だったが、玄関に落ちていたお金を受け取った手前、家にある3票の内、1票をあちらに回そう。」と、なる訳です。

 法律にも違反する、悪い事なのですが、今となっては、ちょっとだけクスッと笑えて仕舞う、恐るべき作戦では在ります。


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  昭和20年頃の町の景色  総頭川上流から海側を撮影



 こんな話もありました。

 私が生まれた頃か、それ以前の頃ですか、私の故郷の町の、とある貧しい家の青年の親が亡くなり、青年の先行きを考える為に、親族会議が開かれました。

 そこで、親族の長老が、とある提案をしたそうです。

 『こんな(彼)は、貧乏じゃし、学校へも行っちょらんし、こんなに出来そうな仕事も無ぁ。それで、どぉじゃろぉか、近ぁ内に町会議員の選挙があるけぇ、町会議員にしちゃりゃぁ食うて行きょうじゃなぁかのぉ。』と、切り出して、話はトントン拍子に進み、親戚一同の協力を得た結果として、見事当選しました。

 その後、経済的にも安定し、幸せな結婚をし、立派な家庭を築かれました。

 心温まる話とも言えますが、何処か釈然としない感じも致します。

 その方は、才能もあり、努力もされたのでしょう、町会議長までされたそうです。

 当時がどうだったかは分かりませんが、現在の町議会議員の報酬は、30代のサラリーマンの平均月収程度は在る様ですので、社会的地位も在りますし、幸運な方だったと言えるでしょうが、都会で生まれ育った方が聞いたなら、苦笑するしか無いのでしょうか。

 もう、半世紀も前の話です。

 私の故郷の町は、一時期、人口が減少する傾向に在りましたが、現在の町長に変わられてからは、町長をはじめとする多くの方々の努力に由り、右肩上がりに転じ、昨年は県内一の人口増加率を誇ったそうです。


>
故郷の海の夕焼け

 
 
 投票を終えて帰宅しましたら、父の友人なども加わって、宴が盛り上がって居りました。

 例の叔父さんも来て居られて、土産のお礼など言われて恐縮しましたが、他の方の手前も在り、お金を送って戴いたお礼は、言えず仕舞いと成りました。

 次の日の講義に出なければなりませんでしたので、そうそうゆっくりも出来ず、早々に支度をし、クーラーボックスに詰められた大量の魚を手土産に、タクシーで駅へと向かいました。

 乗り込んだ新幹線の車窓から、今は無くなって仕舞ったキリンビールの工場の、大きな看板が遠ざかって行くのを見つめながら、悲しいとも嬉しいともつかない、不可思議な郷愁に浸って居りました・・
アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2014-12-18 21:38 | 感じた事

選挙の思い出 2

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 故郷の浜辺

 さて、漸くの事で帰宅した私でしたが、まだ5時でしたし、折角帰省した機会を利用して、久し振りに友人に会いたくなったので、父に了解を得て、船着き場の生簀に活かしてあった魚(メバル)を10尾程〆に行き、それを手土産に、徒歩で友人の家に向かいました。

 その友人とは、幼稚園に入園する前からの付き合いで、長居する心算も有りませんでしたから、手土産など持参する必要も無いのですが、それは、友人の父親が、大の魚好きだった事も有りますが、人の家に訪問する際、手ぶらで行く事が出来ない性分に因るものでした。

 最初の予定では、オーナーが持たせて呉れた漬物セットのお土産を持参する心算でしたが、家に着くまでに、挨拶をした親戚の方にあげてしまったものですから、残りの2個を、両親と、お金を送ってくださった叔父さんに廻しましたので、友人への手土産が無くなったのでした。

 暮れ掛けた道を、友人や御両親の顔を思い浮かべながら歩いて行きました。
 
 友人の家に向かう辻を曲がった時、

 『おい、あんたぁ、何処へ行くんかいのぉ!』 と、呼び止める声がして、道沿いの民家から、50過ぎのオジサンに率いられて、30過ぎくらいの男達が3人出て来て、私を囲う様にして道を塞ぎました。

 見覚えの在る顔でした。

  『いやぁ、久し振りに帰ったけぇ、この先の〇〇がたへ魚ぁ持ってっちゃるんっじゃぁ。』 と、言いましたら、少し威圧する様な口調で、

 『わりゃぁぁ!! 魚やなんかぁ持ってって、つまらん事ぉを頼みに行くんじゃぁなかろぉのぉ!!』 と、凄みました。
 
 どうやら、選挙前日で、他の地区から、投票の依頼に来ない様に、地区の入り口で辻番を張っていた様です。



 秋祭りの風景  【頂載(ちょうさい)浜宮地区】

 私が生まれた町は、村だった時代から、住所で大字に表記される六つの地区毎にテリトリーが在って、その地区毎に町内会が在りました。


 秋祭りの風景  【頂載(ちょうさい)刎条地区】

 その町内会は、親戚や姻戚関係で構成されている、地縁血縁の坩堝でした。


 秋祭りの風景  【屋台】

 その意識は、老人から子供までが、強い対抗意識を持っていて、祭りや町民運動会の折には、その意識が如実に現れますが、町議会議員選挙は、その最たるものでした。


 秋祭りの風景  【屋台】

 更に、戦後になって、近隣の3つの村が合併して町と成った経緯から、元の村毎の対抗意識も在って、更に様相を複雑にしていたのでした。


 秋祭りの風景  【小屋浦の秋祭り】

 『そがいな事ぁ頼みに行きゃぁしゃぁせんよぉねぇ・・・久し振りに顔ぉ合わして、ちぃと話しぃしたらいぬるんじゃけぇ・・・ほれに、あんなの所ぁ〇〇さん方の親戚じゃけぇ、そっちぃ入れにゃぁいけんじゃろぉけぇ、頼まりゃぁせんよぉね。』 と、柔らか目の口調で申しましたら、一番若そうな男が、
 

 秋祭りの風景  【獅子舞(ししまい)】

 『嘘ぉを言やぁがんなッ! おまえらの言う事やなんかぁ信じられるかいやぁ!』 と,憎々しげに凄んで言いました。


 秋祭りの風景  【曳船(ひきふね)】

 彼の、 「お前」 では無く、「お前等」 と言う言い回しに悪意を感じ、私の中の漁師の血が、突然、瞬間沸騰して仕舞いまして・・・

『わりゃぁ! 儂に喧嘩ぁ売りよんかぁ!…さくりゃぁがんなよ~ぉ!!』
「さくれる」とは、方言で「ふざける」との意で、「つばえる」と言う言い方も在ります。

 私だけなら兎も角、父母や親族、住んで居る場所までもが卑下された気がして、思わず怒鳴って仕舞いました。

 咄嗟に、50過ぎのオジサンが、間に割って入って私を宥めながら、

 『まぁまぁお兄さん、こがいな時期じゃけぇ、堪えちゃってくれんさい。悪気ゃぁ在りぁせんのんじゃけぇ。』 と、互いを止めて呉れましたので、冷静を取戻し、御蔭で大事には至りませんでした。

 『今日は、日和が悪りぃ様ですけぇ、この儘いにまひょうよ。』 と、笑いもって踵を返したのでした。

 『仲裁は時の氏神』 仲裁に入った年配者の顔を立てたと言う事も有りますが、幼少の頃から渋川一流柔術を修めていた私は,喧嘩や他流試合は、師より厳しく禁止されて居りましたし、何よりも、あの様な状況の中、無理強いして友人宅へ赴いても、友人に無用の嫌疑が掛けられて迷惑が及ぶと考えたのでした。

 『さえん町よの~ぉ。』 と、つくづく思いながら、家路について居りましたが、ふと思い立って別の幼馴染の家を訪ね、手土産のメバルの唐揚げや塩焼きを酒の肴に、夜の更けるのも気付かぬまま、昔話に花を咲かせたのでした。(3へ続く)・・アジアの片隅より 

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by asianokatasumiyor | 2014-12-16 21:30 | 感じた事

選挙の思い出 1

 第47回衆議院議員総選挙の投票が12月14日に行われ、当初から予想された通りに、自公連立与党の圧勝と言う結果に終わりました。


 私の住所ですと、選挙区は広島1区となり、立候補者は、届け出順で、白石理香 (48歳) 維新の党 新 … 大西 理 (48歳) 共産党 新 … 伊藤真二 (47歳) 次世代の党 新…岸田文雄 (57歳) 自民党 前 の4名でした。


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 岸田文雄氏


 結果としては、保守王国と言われる広島に於いても、7期連続、20年に渡って衆院議員を務め、現 外務大臣でもある岸田文雄氏が、他を圧倒して当選されました。


 地贔屓な私は、何方が当選されようと、郷土の代表として、国の繁栄に御尽力くださる事を願ってやみません。



 初めて選挙に投票した時の事を、今でも鮮明に覚えて居ります。


 それは、私が、二十歳に成ったばかりの、2回生の春の事でした。


 ある日の夕方、父から電話が在り、来週の日曜日に町議会議員選挙が在るので帰って来いと言うのです。


 内心、 『えぇっ(@_@)! 何でじゃぁ! 』 と、思いましたが、父が私に頼み事をしたのは、それが最初の事でしたので、感じる処も有り、快く承諾したのでした。


 すると、2.3日してから、現金書留が送られて来まして、中には5万円が入って居りました。


 それ自体は珍しい事では在りませんでしたが、差出人の名前が、父ではなく、子供の頃から可愛がって呉れている、親戚の叔父さんのものでしたので、怪訝に感じて、すぐに実家に電話をして事情を話しますと、電話に出た母が、『そりゃぁ、ワレが真面目でえぇ子ぉぉしちょるけぇ、広島に帰って来るのに困らんよぉに、叔父さんが送ってくれんさったんじゃけぇ、土産やなんかぁいりゃぁせんけぇ、怪我ぁせんよぉに、早目に帰って来るんでぇ。』と、笑いながら言いました。


 当時、新幹線で京都から広島までの片道の料金が、確か1万円程でしたから、往復しても有り余る額でしたので、申し訳無い気持ちも在りましたが、嬉しい気持ちの方が遥かに勝って居た私でした。


 土曜日の午前中の講義を受け終えて、大急ぎで支度を整えると、アルバイト先のオーナーが下宿まで自家用車で迎えに来て、両親にと、お土産まで持たせて戴き、京都駅まで送ってくださいました。


 京都から広島まで、新幹線で2時間余り、広島駅から呉線に乗り換えて、私の実家の在る町の駅まで30分弱、夕方の帰宅ラッシュに巻き込まれる事も無く、まだ陽の高い内にホームに降りました。

 当時は、週休2日制が、今ほど定着して居りませんでしたので、人々のライフスタイルも随分違っていた様に思います。


 土日を休む様に成った分、平日に皺寄せがきて、学校にしろ職場にしろ、逆に忙しく成った様に感じ、私個人としては、休日は日祝だけに戻した方が良いのではないかと感じて居ります。


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 私の故郷


 私が生まれた町は、広島市と呉市の、ちょうど中間に位置する、瀬戸内海沿いの典型的田舎町でしたが、子供の頃、釣りや潮干狩りに勤しんだ海は埋め立てられて、工場や病院や商業施設などの建物が立ち並び、町のシンボル的な建造物だった火力発電所も無くなって、此処にも、小さな町には見合わない、町役場や商業施設や幾棟ものマンションが立ち並んで、海岸線には微かな昔の面影しか在りません。


 ホームに降り立ち、改札を抜けると、何と無く、いつもと違う空気が漂っている様に感じました。


 駅前の道路脇に設けられた掲示板の前で立ち止まり、幾人か知った顔も在りましたので、『あぁ、あの伯父さん、未だ元気にしちょりんさるんじゃのぉ。』 などと思いながら、貼られた選挙ポスターの写真の顔と名前を一人一人確認しながら見て居りました。


 私の生家は、駅から歩いて10分程の海べりに在りましたが、如何せん、狭い田舎町の事ですから、擦れ違う人の殆どが顔見知りで、その中の半分以上が親戚関係に当たりますので、物心付いた頃には、『道で人と擦れ違ぉたら、誰にでも、お辞儀ぃして時の挨拶ぅするもんっじゃ。』 と言う両親からの教えが染みついて居りました。


 そんな訳で、家に辿り着くまでに、30人近くに挨拶をし、『おおぉぃ!久し振りじゃのぉ!元気にしちょったかいのぉ!』等と、親戚のお兄さんに呼び止められたら、もぉいけません。


 彼是、京都での生活の事や、選挙の投票の為に帰省した事や、夏休みには帰って来るのかとか、秋祭りや正月はどうするのかと言う話にまで発展し、しまいには家に上がって一杯遣って行けと言う処まで至ります。


 『先に家に帰らにゃぁいけんですけぇ。』 と、丁重にお断りして、家路を急ぎますが、それが一人、二人で済みません。


 結局、1時間近くも掛けて家に到着し、オーナーが持たせて呉れたお土産も、3分の1に減って居りました。(2へ続く)・・・アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2014-12-15 20:57 | 感じた事

お久し振りです


私が暮らして居る元宇品の景観(手前左の建物はグランドプリンスホテル広島です)



 お久し振りです


今日から、ブログを再開する事に致しました。


 先日、島根県の浜田市在住の占術関係の依頼者と、久し振りにお会いした際に、 『先生がブログを止めてから2年余りに成りますが、もう書かれないのですか?』と、唐突に問われました。


 『私の知り合いにも、見てる人が結構いたんですよねぇ…先生は、すぐに行き方知れずになる上に不携帯電話ですし、浜田と広島ですと、度々お会いする事も出来ませんし、近況も知りたいし、色々と教えて戴きたい事も多いので、ブログを再開して戴けませんか?』と、請われ、その場では丁重に断りはしたものの心に残り、思う処も有りまして、再開する事に致しました。

 2年も経ったのですねぇ・・・本当に色々な事が在りましたから・・・しかし、日にちが経つのは早いものです。

 また、『納めの歳』に近付きました。

 私の近況としては、ここ2年ほどは、料理請負人を生業とし、彼方此方の料亭や旅館やホテルからの依頼を受けて厨房に立っておりますが、年内は、古くからの友人が経営しております、市内の高級割烹で働き、年明けからは市内の料亭で料理請負人として腕を振るう予定です。


 占術による鑑定や、子授け整体(妊娠し易い身体造り)に関しては、古くからの依頼者や、依頼者からの紹介が在った場合のみ行って居ります。

  世の中にとって埃ほどにも満たない私では在りますが、この世で成し終えなければならない事も幾つか在ると感じておりますので、今一度心を奮い立たせて老体に鞭打ちながらも、のんびりと書き進めたいと思います。

 8月には、広島市北部で大規模な土砂災害により多くの人命が失われ、カープサンフィレッチェも優勝を逃し、広島にとっては、喜びの少ない年であった様に思います。
 年の瀬になり、寒さの厳しい日和が続いており、インフルエンザの流行がメディアで頻繁に報道される中で、愈々14日は、第47回衆議院議員総選挙の投票日と成りました。

 『天の時』を得た自民党が圧勝すると観て居りますが、支持政党も政治理念も持たぬ私は、女性が何の不安も無く子供を産み育て、若者が将来に夢と希望を抱いて歩み、年寄りが安らかに納めの時を迎える事の出来る世の中になる様に、務めて頂きたいと祈念するばかりです。


 既に期日前投票は済ませましたが・・・。


 不勉強で物知らずの私が、人に問われて答えられる事と言えば、狭浅な占術の知識と、長年続けて居りました子授け整体に関する経験と、恥と後悔の多い人生を歩んで来た故の、反面教師としての体験談くらいものですが、占術家としての誇りと使命を持って居りますので、どの様な些細な事柄でも他言致しませんので、安心してお話しください。 【平成26年12月21日】・・・ アジアの片隅より


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by asianokatasumiyor | 2014-12-12 20:00 | お知らせ