占術・三元派北斗流推命術の継承者として、世の中で見聞きし出会った事を、日々綴って参ります。


by 魚のおじさん
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 鞆の浦の景観


 



 広島の、魚のおじさん、異、土師祈昌です。



 いつも、私の記事を読んで戴いていると言うのは、嬉しくも有りますが、恥ずかしい気持ちの方が強いです。



 と、言うのは、普段の私は、こんな堅い文章では無く、今、TBSで放送中の「流星ワゴン」 の、香川照之 氏 が演じる、主人公の父親・永田忠雄 以上に、濃度の濃い、「広島弁」 で会話して居ますから・・・それに、あんなに渋い中年男では無く、チビで、デブで、ハゲの、足の不自由な、下品なオジサンですから・・・それと、何故か、普段は、人に語らないプライベートな話や、思って居る事を、ブログでは、躊躇無く語って仕舞うので、混浴の温泉で、裸を見られて居る感じです。



 NHKの朝ドラ、「マッサン」 もそうですが、地贔屓な私は、「広島」が関連していると、自然と観て仕舞います。


 ただ、「流星ワゴン」の主人公の実家は、広島県福山市の鞆の浦 と言う設定ですが、香川氏が、喋って居るのは、「広島弁」の中の、「安芸言葉」で、福山なら、「備後弁」 を話すのが本当で、そこが少し残念な処です。


 とは言え、香川照之氏の演じる、広島の叩き上げの男の演技は、自分の親戚の叔父さんを見ている様な、絶妙の名演技です。



 広島県は、明治4年に行われた廃藩置県 以前は、広島藩 と呼ばれ、広島藩は、広島を中心とした安芸国 (芸州藩または安芸藩とも呼ばれた) と、福山を中心とした備後国 の二国を有する大藩で在った為、この二国は、各々、違う文化圏を構成し、未だに言葉にも微妙な違いが有ります。


 また、住民は、未だに強い対抗意識を抱いており、福山や尾道の住民の中には、備後の出身と言う意識が高い人も多い様です。







 竹鶴酒造



 「マッサン」の舞台は、竹原市 ですが、これは、広島市と、福山市の中間地点に当たる為、微妙な違いを区別するのは難しいです。



 ちなみに、私も、未だに、 「朋輩・ほうばい」と言う言葉を使いますが・・・他の人が話すのを聞いたのは、何十年振りでした。



 これを機に、 「朋輩」と言う言い方が、また使われ始めると嬉しいと思って居ます。




 皆さんが、「幸せの形」を手にされる事を、心より祈念致して居ります。・・・アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-01-29 22:58 | 広島弁

横綱の品格


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 発言のもとと成った取り組み


 先日、横綱 白鵬の、優勝後のインタビューでの発言が、物議を醸しています。


 以下は、
日刊スポーツ.com より


 大相撲初場所で史上最多33度目優勝を全勝で飾った横綱白鵬(29歳・宮城野部屋)が26日、審判部を痛烈批判した。
 東京都墨田区の宮城野部屋で行われた一夜明け会見で、取り直しになった13日目の稀勢の里戦について言及。納得いかない様子で「子供が見ても分かる。・・・なぜ取り直しになったのか。・・・2度とないようにやってもらいたい」などと、異例の注文を付けた。


<白鵬の審判部批判発言>


 記者…大記録を全勝で決めた


 白鵬…疑惑の相撲が1つあるんですよね。これは、いかがなものかと。13日目ですね。みなさん、知ってるでしょう。勝ってる相撲ですよ、1番目は。その時は分からなかったけど、帰ってビデオを見たけど。子供が見ても分かるような相撲なんでね。なぜ、取り直しになったのか。あの大鵬親方が、45連勝して勝った相撲が、負けになった。それからビデオ判定ができた。なのに、ビデオ判定は何をしたのか。本当に悲しい思いでした。ビデオ判定があれば、大鵬親方のあの負けもなかったかも。連勝記録も続いていたかも。もう少し緊張感をもってやってもらいたい。負けてたら(自分の)優勝記録が止まったかもしれない。勝てたから良かったけど。


 記者…優勝した後も集中して相撲を取れたか


 白鵬…ビデオ判定の方も、元お相撲さんでしょう。取り直しの重みも一番分かっているはずじゃないの。簡単に取り直しと言うのはやめてくれと思いながら、その日夜、ビデオで見たんですよ。こんなの2度とないようにやってもらいたい。そう思ってやってましたけどね。本当に肌の色は関係ないんだよね。この土俵に上がって、まげ結ってることになれば日本の魂なんですよ。みんな同じ人間です。


 記者…記念の優勝が全勝になったが


 白鵬…13日目は苦労しました。(稀勢の里と体が)重なって落ちましたから、よく分からなかった。13日目に決まったのも久しぶりで帰った後、ビデオを見た。悲しかった。盛り上がりどうこうじゃない。こっちは命を懸けてやってますからね。


 [2015年1月27日8時54分 紙面から]

 この発言に対して、産経新聞夕刊フジスポニチ 等、各紙、テレビ等で、様々な賛否両論が飛び交っています。


 以上が、一連の記事の概要でです。


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 横綱 白鵬の土俵入り  


 私が、気に成った事は、横綱が、「日本の魂」と言いながら、「肌の色」と、言った事でした。

 悪意を持って受け取れば、「自分が、日本人では無いから、依怙贔屓をされている」とも、受け取られ兼ねない発言です。

 史上最多と成る、33度目の優勝と言う、偉業を成し、更に、この記録を積み上げて行かんとする横綱としては、悪意は無いとしても、思慮に欠けた発言だと思いました。・

 
 私は、幼少の頃から、渋川一流柔術緒方派 と申します、古武道 を習って参りましたが、神代の頃から続く、尤も歴史在る武道で在る相撲が、武芸十八般 に含まれないのは、神に捧げる神事を起りとする、神聖な存在で在ったからに他為りません。

 それ故に、大相撲の勝敗は、尤も厳格で公正です。

 勝敗を決める行司 の他に、5人の審判員 が土俵の周りに配置されて、行司の采配の正否をを見定め、次の取り組みを待つ、控え力士 にも、「物言い」 をつける権限が与えられて居り、更に、控室では、2人の審判員が控えていて、勝敗の判定が難しい場合、ビデオモニターで確認して助言をする体制を執って居り、それでも判定が付かない場合は、「同体取り直し」と成るのです。


 私は、勝敗の判定に関しては、大相撲こそが、あらゆる格闘競技の中で、最も公平であると考えて居ります。


 そもそも、武道に於いて、審判の裁定は絶対で、役目にない者が、此れに異議を唱える事は許されません。


 こんな事は、ファン同士が、テレビを観ながら言う事で、譬え試合が決して、優勝を勝ち取った後とは言え・・・否、優勝を勝ち取った後だからこそ、自分の口から発すべき言葉ではなかったと、本当に残念に感じて居ります。


 様々な不祥事に因り、大相撲の人気が低迷し、それを払拭する為に、皆様の血の滲むような努力に由って、漸く回復して来た相撲人気・・・これを先頭に立って牽引されて来た、横綱だからこそ、本当に残念に感じて居ります。・・・アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-01-28 22:56 | 思った事

うちの大将


 この処、堅い記事ばかり書いて居ましたので、息抜きも兼ねて、私の同居猫の、大将 ( シャルトリュー・騙猫・8歳 ) を紹介します。



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 以前、御付き合いを、させて戴いて居りました、女性に預けられ、彼だけが残った・・・よく在る?パターンです。

 大将と言う名前の由来は知りません。

 彼女が、そう呼んで居りましたから・・・そのまま私も、そう呼んで居ります。

 シャルトリューと言う品種だと、彼女が言っていた様に思いますが、私は詳しく有りませんので、定かでは在りません。




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 騙猫と言うのは、私が作った造語で、去勢した馬を、騙馬 ( せんば ) と言う処から、騙猫 ( せんびょう ) と、性別表記を致しました。


 私は、 「在るが儘」で在るべきと考えて居りますので、去勢などしませんが、彼女が飼っている頃、彼が2歳の時に、一春に、近所の雌猫、数匹を孕ませると言うプレイボーイ振りを発揮した為、父親の提言により、仕方なく去勢したそうです。


 現在8歳の男盛りで、気の毒にも思いますが、激しい気性だった様ですが、去勢してからは大人しく成ったそうです。

 
 正面の、アップを撮って、昔、ブイブイいわしていた男前振りを披露したかったのですが、無理でした。




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 この時期、一日の殆どを、炬燵の中で過ごし、食事とトイレと、偶に構って欲しい時、ゴソゴソと抜け出して来て、こうして炬燵に上がって、作業を中断させます。

 ちなみに、後ろに映っているのは、愛用のワープロ ( 文豪JX-750 ) で、昭和な私は、大抵の作業は、これを使って居ます。

 ワープロからパソコンに主流が代わる、最後にだされた、ワープロとしては最新型で、インターネットにも繋げる事が出来る優れ物ですが、弟子からは、


 「そんな時代遅れな代物を使っているのは、なかにし礼 と先生くらいですよ。」 と、笑われて居ります。

 とは言え、デスクトップとノートパソコンが2台在って、メールやHPの管理やブログは、専らノートパソコンを使って居ます。




 「独り暮らしをするけん、マンションじゃと飼えんけぇ、預かってね。」と、彼女に頼まれてからの付き合いですが、彼としては、いい迷惑かもしれませんが、お互いに、折り合いを付けて、日々を過ごして居ります・・・ アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-01-27 22:49 | 日常の風景

大寒


大寒のイメージ映像




 今日、1月20日は、二十四節気大寒です。



 大寒は、一年でもっとも寒い時期という意で、小寒から数えて15日後とされ、小寒から大寒までの15日間と大寒から立春までを、「寒の内」と言います。



 大禊の光景



 大禊や寒稽古など、耐寒のためのいろいろな行事が行われ、寒気を利用して、凍り豆腐、寒天、酒、味噌などを仕込む時期になりす。


 私の実家では、大寒の日に産んだ卵を食べるという習慣が在り、子供の頃には、父が、親戚の家の軍鶏(当時、広島では、闘鶏が盛んで、軍鶏を飼っている家が多かった)が産んだ卵を貰って来て、卵かけ御飯にして食べて居りました。

 大寒に産まれた卵のことを「寒卵」と呼び、大寒の卵は滋養が有り、これを食べると1年健康で暮らせると言う話でした。



 しかし、大寒の一番のイベントは,「いさり漁」です。




 「いさり漁」の図



 「いさり漁」は、潮が引いて、浅くなった時を狙って、岸壁や浜で、細目の淡竹(はちく)や黒竹の竿先に、ヤス(手銛)や、掬う小さい網を取り付けた漁具を使って、舟から、魚を突いたり、海鼠(ナマコ)や栄螺(サザエ)などを掬い獲る漁です。


 二十四節気は、新月と満月の頃に当たり、必ず大潮の時期に成ります。


 大寒には、早朝に干潮に成りますので、干潮の2時間ほど前から舟を出し、漁場へ向かいます。


 通常、冬場の「いさり漁」の主要な獲物は、海鼠ですが、大寒の朝は違います。

 
 狙うのは「鰻」です。


 鰻と言うと、川や湖と言うイメージの方が多いかも知れませんが、逆に、子供の頃の私は、川や湖で、鰻が獲れる事を不思議に思って居ました。

 鰻は、海の魚だと思って居ましたから・・・。


 鰻と言うと、「土用の丑の日」と言うイメージの方が多いと思いますが、本来の鰻のは春で、春が訪れて雪が解け、水が温んで春の長雨の時期に成りますと、巣穴の中に潜り込んでいた鰻が活発に動き始め、沢山獲れたのでした。

 古来、鰻は滋養が高いとされ、病人食とも言われて居りました。

 この事は、のにも出て来ますが、話の中では、兵十が鰻を獲っていたのは、秋の長雨の時期でした。

 「土用の丑の日」に、鰻を食べる風習が出来たのは、諸説在りますが、平賀源内を起源とする説が、最も知られています。


 
 海と言いましても、突拍子も無い程の沖合に居る分けでは無く、川の河口に近い汽水域に多く生息して居ます。

 岸壁に積み上げられている、石と石の隙間を住処として、石の上に寝そべって居る事も在りますが、大抵は、餌を物色する為に、頭の辺りだけ出しています。

 エンジンを止めて、岸壁づたいに水中にライトを照らし、鰻を見付けると、ヤスで突いて捕らえます。

 不思議なもので、ライトを当てても、殆んど反応しせんが、音を立てると、すぐに引っ込んで仕舞います。

 
 湖や川と比べ、海は、冬でも水温が下がらない為に、鰻が活動して居り、寒の鰻は、油が程よく落ち、臭みも無く、身も程好く柔らかで、絶妙の味わいが在ります。

 大型のモノが多く、500gから1kg在り、大きなモノは2kgを超えますが、小骨が目立ち、大味で、余り美味しく在りません。

 鰻は、魚の中では、寿命が長い部類に入り、30年以上生きるそうで、私は、以前、4kgの大物を獲った事が在りますが、私が子供の頃、父は、網で2貫目を超える(約8kg)の超大物を獲った事が在りますが、皆に見せた後、「主じゃけぇ」と言って、海に放してやりました。

 鰻が、8kgに成長するのに、いったい何年生きて来たのかは分かりませんが、無学では在りましたが、生き物の命を奪う事を生業としているからこその、生き物に対する憐みや、自然に対する畏敬の念を持った、真の海人だったと思います。


 そんな訳で、大寒に鰻をいさりに行きますと、「縁起物じゃけぇ」と言って、うちで食べる分と、親戚や友人に分ける分を獲ったら、早々に漁を終えて帰るのでした。



 
  鰻を捌く


 漁から帰りますと、鰻を氷水に浸けて、動きを鈍らせてから捌きます。

 関西では、腹から開きますが、父が背開きで開いて居りましたので、基本としては、私も背開きで開きますが、京都に居た頃に、腹開きも習いましたが、背開きにした方が、油がのって居て、美味しいと思います。

 特に、寒の鰻は、背開きに限ると思います。





 鰻の蒲焼き 


 鰻に限らず、素焼きにするなら、魚も肉も野菜も、炭火が良いですねぇ。


 ガスだと、ガスの臭いが着くと言いますか、好く在りません。


 炭火ですと、煙の匂いも着いて、好い加減に成ります。


 実は、私は、鰻を焼く臭いが大嫌いです。


 タレを付けてからは、甘く香ばしい馨りがして良いのですが、素焼きをする時の臭いが大嫌いです。

 特に、出汁を取る為に骨を焼くのですが、私の感想ですが、「死体を焼く臭い」と同じ臭いがします。

 煙が髪の毛にかかると、臭いが染み込んで、なかなか取れません。

 鰻の蒲焼きは大好きですが、自分で焼いた後は、葬儀に参列した記憶とリアルに重なって、あまり食べたく無くなるのでした。



 私は、釣りや網で獲るのと違い、直接、獲物を見定めながら捕らえる、「いさり漁」が、とても好きでした。


 テレビで、濱口優 さんが、「獲ったどぉぉお!」と、叫ぶ気持ちが、よく解ります。


 足を悪くしてからは、「いさり漁」どころか、釣りにさえ行っていませんが、今日は、何処か、鰻の美味しい店にでも行って、うな重を食べようと思っています。・・・ アジアの片隅より


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by asianokatasumiyor | 2015-01-20 22:34 | 二十四節気

コメットさん理論

 
善哉のイメージ映像    うちの店の善哉では在りません




今日、少し、嬉しい事が在りました。






 私が、料理請負人として働いて居ります割烹では、昨年末から本日まで、期間限定で、お昼に、懐石膳とお任せコースの和菓子に変えて、善哉の小椀を御出しして居りました。




 ランチタイムで混雑する時間帯も過ぎ、オーダーストップの時間も迫って、若いのと私が、皆の賄を作って居りますと、女将が、



「土師先生、いつも来て下さる◯◯社長の所の奥さんが、善哉が、凄い美味しい言ぅてじゃけぇ・・・それで、作られた料理人の方に、御礼が言いたい言ぅてじゃけぇ、一寸でえぇけぇ、出て貰えんかねぇ。」と、如何にも申し訳無いと言う様な笑顔で言いました。



 こうした事は、料理人としては、とても光栄な事で、時々、在るのですが、私は、この様な場面での受け応えをするのが、極めて苦手でして、失礼ながら、大抵の場合、『今、料理人は、手の離せない料理を作って居りますので、申し訳御座いません。』と、言って貰って、御断りする事にしております。



 女将も、その事は重々承知して居りますので、あんな作り笑いをしたのでしょう。



 如何せん、『善哉』ですから・・・。



 メインの料理を褒められたのならいざ知らず、最後に御出しする、和菓子に変えた善哉を褒められたのですから、どう御応えして良いものか分かりません。



 しかし、逆に言えば、和菓子に変えた善哉さえ褒められるのですから、メイン料理も、推して知るべしと言う処でしょうか。



  実は、和菓子に変えて、善哉の小椀を御出しするプランを、考えて推したのは私でした。



 恐らく、市内の割烹で、こんな常識外れな事をしているのは、うちの店だけだと思います。



 とても好評で、女性の御客様の中には、「御代わり」を所望される方も多かったのですが、数に限りが在り、御断りさせて頂いて居りました。



 勿論、私が、サービス残業をして、若いのを助手にして、小豆を研ぐ作業から申しますと、3日掛けて餡子を炊きます。



 生粋の日本料理の職人ですと、嬉しく無い事なのかも知れませんが、私は、そうでは在りませんから、善哉を褒められて、内心は、とても嬉しく感じて居りました。



 善哉だけで無く、夏に御出しして居りましたアイスクリームも、以前は、業務用のレディーボーデンでしたが、手作りの物に変えました。



 アイスクリーマーなど在りませんから、氷に塩を入れて、「モル凝固点降下」 を利用した、昔ながらのアナログ製法で、大きなステンレスボールに材料を入れて、ただ只管に掻き混ぜる、大変根気の要る作業でしたが、御客様が、大変喜んでくださいましたので、メインの料理以上に、遣り甲斐を感じて居りました・・・割烹料理の店ですが・・・。




「えぇっ!・・・善哉ィ!・・・堪えてぇや!」と、渋い顔で返事をしますと、


「まぁ、そぉ言わんと・・・今日が最後じゃ言うんで、態々、皆さんで来て下さったんじゃけぇ、顔をだしちゃって!」と、女将が申しますので、渋々、行かせて頂く事に致しました。


 ◯◯社長は、広島でも有数の、不動産関連のグループ企業を経営されており、友人が、この店を開店した時から利用して戴いている常連様で、プライベートだけでなく、ビジネス上の接待や社内の親睦会等、常日頃から利用して戴いて居りまして、奥さんも、交際の広い方で、サークル活動や習い事の帰りなどに、お友達などと、よく利用してくださいます。

 厨房越しに、拝見した事は何度も在りますが、直接、御挨拶するのは初めてでした。




 女将の後に続いて、座敷に招かれ、御挨拶を致しました。



「申し訳在りませんが、私は、足が不自由なもので、このまま立って、お話しさせて頂きます。」と、申し上げました。


 これが、私が、御客様の申し出を、お断りする理由でした。



「すいません、お忙しいでしょうに・・・この前来た時に、善哉は今日が最後だと聞いてたもので、料理も美味しいですが、こんなに美味しい善哉を食べた事が無かったもので、フラワーアレンジメント教室の帰りに、友達を誘って来たんですよ。」


「いつも美味しい料理を食べさせて頂いている御礼を言いたかったのと、皆で、料理のサークルも遣っておりまして、どんな作り方をされているのか、コツなどを伺いたくて、先生と御話がしたかったんですよ。」と、満面の笑みを浮かべて仰いました。



 それで、学生時代に、京都の老舗和菓子店で、餡子の炊き方の手解きを受けた事や、小豆は、丹波笹山産の大納言 を使っており、よく研いだ後、二昼夜、真水に浸けて土鍋で炊き上げている事や、和三盆糖 を、小分けして足しながら、6時間程掛けて炊き上げる事や、最後の仕上げに、百姓の塩 を適量入れる事などを、お話し致しました。



 皆さん、大変喜ばれて、メインに御出しした、グジ(アマダイ)の奉書焼や、早妻汁(広島の漁師の郷土料理)の事などに話が及び、大いに盛り上がりました。



 そうこうする内に、御帰りになる事に成りましたが、どうしても気になる事が在りましたので、唐突に、



「あのぉぉ、昔、コメットさんと言う、テレビ番組が在ったんですが、主演の女優さんは、何と言う名前の方でしたかねぇ?」と、奥さんに聞いた処、


「あぁ、在りましたねぇ、子供の頃、よく観て居ました・・・確か、九重佑三子さんですよ。」と、ニコニコしながら仰いました。


 他の方は、九重佑三子さんだったと言う方と、大場久美子さんだったと言う方に分かれました。


「あぁ、そおでしたねぇ・・・田辺靖雄さんの奥さんですよねぇ・・・何年か経って、大場久美子さんも遣ってましたよねぇ・・・いやぁぁ、奥さんが、九重佑三子さんの若い頃に、感じが似とられるので、チョッと思い出しました。」と、言いますと、奥さんが、


「まぁ、先生!御世辞も御上手なんですね。」と、笑いながら仰いました。



 皆さん、大変、喜んで帰られましたし、女将の機嫌も上々で、申し分の無い一日と成りました。



 普段は、厨房の一番奥から出る事は御座いませんし、御客様と、直接、御話する機会も、滅多に御座いません。



 御客様の様子は、女将や中居さんから伝え聞くか、御帰りになる際の声の調子で感じ取るか、下げて来られた器の食べ残し等からしか察するしか在りません。



 今日の様に、御客様と直接触れ合って、その人となりや好みを知り、料理に対する忌憚の無い意見を聞く事や、逆に、どんな料理人が、どの様な思いで料理を作っているのかを知って戴く事も、大切な「おもてなし」の一つなのかも知れないと感じました。 



   

九重佑三子さんのコメットさん




 コメットさん理論言うモノが在ります。



 私が社会人に成ったばかりの頃に、思い付いた方法です。



 コメットさん と言うのは、若い方は御存知無いでしょうが、私(現在53歳)が、小学1年生の頃に放送されていた、子供向けテレビ番組で、当時、女子には、絶大な人気が在りました。



 恐らく、家にテレビが在れば、観ていない女子は居なかったと思います。


当時は、九重佑三子さん が主演されて居りました。




 

大場久美子 コメットさん  




 その後、10年余り経った、高校3年生の頃に、リメイクされて、大場久美子さん 主演で、コメットさんが放送され、初代程では在りませんが、高視聴率をあげたのでした。



  この、10年程の時差がポイントです。



 更に、初代コメットさんは、今と違って、頻繁に再放送されていましたので、4年ほどの幅が在ります。



 これを、どう利用したかと言いますと、私が、25歳の時でしたら、相手の女性の年齢が分からない時、


「コメットさん、知っちょる?・・・あれって、どぅ言う名前の女優さんか主演しよったんかいねぇ?」と、唐突に質問するわけです。



「九重佑三子さん」と答えれば、20歳以上と言う事になり、「大場久美子さん」と答えれば、10代と言う事になります。



 現在ですと、「九重佑三子さん」と答えれば、47~48歳以上と言う事になり、「大場久美子さん」と答えれば、40~46歳と言う事になり、39歳以下の人は知らないと答えます。



 私と同年代でも、両方を観ていた方も居られるでしょうが、人と言うのは、先に知った順に答えますので、かならず「九重佑三子さん」と答えます。



 現代は、情報化社会なので、薀蓄として御存知の方も多いかと思いますが、9割以上は当たります。



 若い頃は、クラブなどに行くと、店のホステスさんを相手に、この質問をした後に、ネタ晴らしをして、盛り上がって居りました。


 店の常連の奥さんは、年齢より若く見えるタイプの方でしたので、お話をしている内に、無性に気になり、不謹慎ながら、あんな質問をして仕舞いました。



 とは言え、 「奥さんが、九重佑三子さんの若い頃に、感じが似とられるので・・・」と、言いましたのは、御世辞では無く、奥さんは、くりくりっとした瞳が印象的な、色白の可愛い感じの方で、もう少し若い頃の九重佑三子さんを彷彿させる方なので、それも在って、あんな質問をしたのかも知れません。



 若い頃は、酒豪と呼ばれ、バブルの時代を謳歌して居りましたが、結婚して間も無く、腎臓と肝臓を同時に患って死に掛けて以来、酒を断ち、酒を飲まない習慣が身に着いて、料理に使う酒の利き酒以外は、口に致しません。



 今日は、若かった頃の、酒でのしくじりなど思いだしては、苦笑いなど致して居ります。・・・アジアの片隅より


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by asianokatasumiyor | 2015-01-17 22:28

1月6日 小寒

今日、1月6日は、二十四節気小寒 です。



  寒稽古



 冬至から数えて、15日目頃で、冬至大寒の中間に当たり、寒さが加わる頃という意味で、「寒の入り」となり、小寒から節分までの30日間を「寒の内」と言い、寒風と降雪の時節で、寒さが厳しくなる頃とされています。


 一年の内で、最も寒くなる時季で、この「寒の内」に、寒稽古や寒中水泳が行われます。



 今朝は、未明から、小雨が降り続く、愚図ついた天気ですが、この時期にしては、気温が高く、私などは、昨夜から窓を全開にして、Tシャツと半パンで過ごして居ります。


 今日は、雨なので、散歩にも行かず、店の方も、遅く入る日なので、部屋でのんびりしています。


 今、料理請負人として働いている、友人が経営して居ります割烹、は、午前11時30分から2時までと、17時から22時までの営業時間ですが、私は、一日中、働いて居る訳ではありません。


 それと言いますのは、日曜日・祝日が定休日で、月曜日と木曜日と土曜日には、店の若いのを連れて、早朝(3時)から、広島中央卸売市場に仕入れに行きますので、仕入れに行った日は、仕入れを終えて店に入り、魚の鱗をうって腹を開け、物に寄っては三枚におろす等の下拵えを致します。


 その後、皆が出勤して来るまで、他の食材の下拵えをしたり、煮物などを仕込み、昼の仕事を終えると、若いのと「賄い」を作って食べた後は、余程の事が無い限り、午後3時~4時には、仕事を終えて帰ります。


 市場に行かない日は、開店前(11時)に厨房に入り、御客様の入り具合いにも由りますが、夜8時から、遅くても9時には上がります。  


  以前は、魚や食材の仕入れは、全て、昔から付き合いの在る、信頼のおける仲卸業者に依頼して居りまして、私が、鮮魚の卸業を営んで居りました頃は、業者として入って居りました。


 私が入ってから、と言うよりは、若いのを連れて市場に仕入れに行く為に、料理請負人として、私が招かれました


  実は、店の若いのと言うのは、友人の長男でして、料理学校を出てから、直ぐに店で働き始めましたので、余所で修行した経験が無く、店主の息子と言う位置で、「甘え」ない為と、直接、魚や食材を、自分の眼で見て仕入れをする経験を積むと共に、日頃から市場の関係者と交流を持って、コネクションを作り、経営者としての資質を身に着けさせたかった様です。


 謂わば、「息子の教育係」で、私は、店では、「先生」と呼ばれています。


 月・木・土曜日以外の仕入れは、以前通り、業者に依頼しており、市場が立たない(暦の関係 で、臨時開市日や臨時休市日が在ります)水曜日には、若いのを連れて、私の祖父の代から付き合いの在る、島しょ部の漁師さん達の所に、直接、仕入れに行く場合も御座います。


 市場が、水曜日に休市日に成りましたのは、30年余り前の事でした。


 旧草津魚市場は、広電草津南駅の近くの、国道2号線沿い に在り、幾つもの卸問屋が集まって市の態を成していました。


 1958(昭和33)年に、打ち立てられた「大広島計画」 の基本構想の下、「西武開発事業」 に依る、庚午・草津・井口地区の地先水面の埋め立て工事が、1966(昭和41)年に着工され、1982(昭和57)年に、竣工しました。


 県や市は、当初の構想通り、市内各所に分散していた、鮮魚・青果・食肉等の市場を統合した施設として、現在の位置に、広島市中央卸売市場を設置しました。


 当初は、市場の関係者も、漁業者も、移転に大反対して居りましたが、国・県・市ともに、税金・衛生面・許認可などに亘る、かなりダーティーで強弁な圧力を掛けて、これを屈服させて、第三セクター方式となる、広島市中央卸売市場を設立しました。


 それ以降、お役人がする事なので、週休二日制が導入されましたが、土日を休みに致しますと、様々な業者に悪影響が及ぶ為、間の水曜日が閉市日に指定されたのでした。



  広島中央卸売市場


 

 私は、事故で、右足が不自由に成ってからは、車の運転は、なるべく控えています。

 

運転が出来ない訳では無いのですが、左足なら、まだ良かったのでしょうが、右足が不自由ですと、ブレーキやアクセルの操作が、どうしても元氣だった頃の様に、俊敏な対応が出来ませんので、若しもの事が起きて、他人様まで不自由な身体にして仕舞ったり、命まで奪っては、取り返しがつきませんので、運転は極力控えております。


 その様な訳で、市場に行くのには、朝3時に、若いのが、マンションの前まで来て、私を拾って行きます。


 深夜ですので、車も少なく、信号も点滅になっているモノが多いので、ものの15分も在れば到着します。


 主に仕入れる、沿岸物の鮮魚の競は、5時からですし、競に直接参加する資格も持っては居りますが、卸問屋に注文を入れておいたり、問屋が仕入れた鮮魚を、品定めして仕入れますので、実際は、そこまで早く行く必要は在りません。


 時には、どうしても欲しい魚が在る時は、早く行って、競に掛けられる前の魚を物色し、お目当ての魚を見付けたら、問屋に依頼して、「先取り」と言いまして、競に掛けられる前の魚に、その日の相場の最高値以上の値を付けて、落札して貰う事も在りますが、そう頻繁には在りませんし、4時過ぎに着けば間に合います。


 必要以上に早く行くのは、若いのと一緒に、場内を回りながら、「この魚の此処がこうだから、良いとか悪い」とか、それほど忙しくない時間帯に問屋に行って、珈琲など馳走に成りながら、問屋の大将と、世間話も交えて、ビジネスの情報を仕入れたり等、少しでも私が居る間に、若いのを仕込もうと、早めに出張っているのです。


 私自身も、今も未だ、修行せねばならぬ事ばかりで、偉そうに言える輩では在りませんし、私自身もゆっくり寝ていたいし、人に教えるのも苦手ですが、「教育係」としては、そうも言って居れず、満身創痍の身体に鞭打って居ります。


 その甲斐あってか、慣れも在り、若いのも随分使える様に成って来ました。



 

   競り場の様子  



 以前は、大変でした。  


  うちの若いのは、子供の頃から知って居りますが、如何せん大人し過ぎる


 大人しいのは、或る意味、「美徳」ですが、そう言う料理人が居ても良いとも思いますが、広島の街中で、割烹を経営し、自分の家族や、従業員やその家族を養って行くには、その重責を担うだけの「気概」と、大人しいなりの「覇気」が欲しいと考えて居ました。



 如何せん、声が小さい。



 魚河岸で、声が小さいと言うのは、致命的な欠点で、例えば、戦場に在って、銃に弾が籠っていない様なモノで、相手に伝わりません。




 皆、海千山千 の、叩き上げの男達ですから、声の覇気だけで見下されて仕舞います。



 如何せん、甘ちゃんの、お坊ちゃんです。



 今でこそ、きちんと、時間より、少し早目に来る様に成りましたが、初めの頃は、ギリギリに来たり、少し遅れたり・・・まぁ、無理もありません。  店の片付けが終わるのが、早くても、午後の11時ですから、家に帰って、直ぐに寝ても、いくらも寝れないでしょう。


 家から、私の所まで、精々、10分で来れるでしょうが、私は、5分、10分前には、下の道路まで出て待って居りますので、20~30分待つ事に成ります。  まぁ、それでも、投げ出さずに来るだけは増しだと思って、笑って居ました。



 しかし、去年の6月の終わり頃でしたか、待っても待っても、来ない日が在りました。


 私は、冬用に身体を造っているので、寒いのは平気ですが、その分、暑いのが苦手でして、・・・やけに蒸し暑い日で、早朝だと言うのに、待って居ると、自然と汗が滲みます。


 暑いのより、もっと嫌な事が在りまして、それは、蚊に刺される事でして、刺されない様に、絶えず動き回り、羽音が聞こえると、手や帽子で払いのけるのですが、結局、3、4か所刺されて仕舞いました。


 の存在が、夏が嫌いな最大の理由です。



 4時を回り、東の空が白んで参りましたので、仕方なく、タクシーを拾って市場へ向かいました。  『事故やら、しちょらんにゃぁえぇがのぉ…。などと思いながら、市場に着くと、急いで問屋に向かって行き、注文している魚の確認などを済ませると、出して戴いたアイス珈琲を飲みながら、問屋の大将と雑談をして居りましたら、若いのが居ない事を指摘され、


「ほぉなんよぉ!・・・ケツぅわりゃぁがったんかのぉ!」と、笑って居りましたら、


 「優し気な、お兄さんじゃけぇねぇ・・・よぉ頑張っちょってじゃが。」と、大将の息子さんが言いました。


 その内に、沿岸物の競りが始まり、競り落とされた魚が、次々と運ばれて来て、問屋街が一層遽しく成って来ました。


 うちの店で注文していた魚も、競り落とされて来て、大将が、店の傍らに積んで呉れています。



  その内に、ようやく、人混みの間から、うちの若いのが、不器用に人を避けながら、小走りで来るのに気付きました。


   悪い事をしたと思っていたでしょうし、遅れて来た事の周囲への恥ずかしさも在ったのでしょう、照れ笑いをしながら、私の前に来ると、




 「いやぁぁ、寝坊して仕舞ぉて・・・」



 「おどりゃ~あ!!

  つばゃぁがんなよ!! 

    寝言ぉぬかしよりゃぁがったら

        海ぃつけてまうど!!」


(訳) 「お前! ふざけるなよ! 寝言を言っていると、海につけてしまうぞ!!」 



一瞬で、場内が静まり返りました。



 すぐさま大将が、私を制する様に、間に入り、周りに居た20人ほどが、何だ何だと言う風に、集まって来ました。



 声の大きさ程、激怒していた訳では無かった私は、ちょっと恥ずかしくなりながら、


  「いやぁぁ、大けぇ声ぇ出して仕舞ぉて、すんませんのぉ・・・内輪の事ですけぇ・・・はぁ、世話ぁ無ぁですけぇ、仕事ぉしてくれんさい。」 と、笑いもって言いましたら、皆、安心した様に、笑いながら、各々の仕事に戻って行きました。


  「どぉしよったんの?・・・兄ィが、事故やら、警察に止められたんじゃろぉか言ぅて心配しよったんよ・・・分かった、彼女とデートしよったんじゃろぉ。」と、笑いもって、言って呉れましたので、場の空気が和みました。


  「あんのぉ、儂ゃぁえぇんよ・・・あんたの身内みたぁなモンじゃけぇ・・・じゃが、あんたが来んにゃぁ、あんたの仕事ぉを、他の人がせにゃぁなるまぁが・・・うちの魚ぁ、大将が、こづんでくれよりんさったんでぇ!」


  「言い訳やらぁ言う前に、皆に、お礼やら、ことわりぃ言ぅんが先じゃろぉ・・・まぁ、事故やなんかっじゃぁ無かったけぇ、えかったよ。」と、笑いもって言いましたが、若いのは、棒立ちのままで俯いて、泣いて居りました。


 「兄ちゃん、はぁえぇけぇ、あんた方の魚が来ちょるけぇ、車へ持ってきんさいや。」と、大将に促され、若いのは、問屋の若い衆に手伝って貰いながら、魚を運んで行きました。



 此処の問屋の大将とは、旧草津市場の頃からの付き合いです。  


 二つ年下で、私は大学生で、彼は高校に通っていて、夏休みなどに、家の商売の手伝いをして居りました。


 私が、魚の卸業を生業としていた頃は、よく食べ歩いたり、ゴルフのコースを回ったりして居りました。


 先代が、早くに亡くなられてからは、後を継ぎ、難しい時期を何度も乗り越えて、広島でも有数の、鮮魚問屋を維持して居ます。


 私は、彼が、先代の後を継いだ頃から、大将と呼ぶ様になり、大将は、知り合った頃からの習慣で、未だに私を兄ィと呼び、飛び切りの人情家で、数少ない私の友人の一人です。


 当時は、お互いに若造でしたが、旧草津市場の事を知る、数少ない古株に成りました。



 「兄ィが、おらぶ ( 広島弁・怒鳴る ) のを、久し振りに聞いたのぉ・・・若いねぇ!」


 「じゃが、おらばれるぐらいじゃったらえぇよ、儂等が若ぁごらぁ、すぐ、ぶしゃぁげられよったけぇねぇ。」と、笑いながら言いました。


 (訳) ぶしゃぁげる ⇒ ぶん殴る



 「昔ゃぁ、市場の中じゃぁ、喧嘩もしょっちゅうじゃったし、荒い人間ばっかりじゃったが、仕事ぉするんでも、面白かったよねぇ・・・兄ィに、よぉ飲みに連れてって貰いよったけぇねぇ。」と、昔話をし始めると、互いに昔の想い出話を出し合って、若者に仕事を任せ、雑談に興じて居ました。



 その日、魚の仕入れを終えた後は、駐車場を挟んだ反対側に在る、青果市場で、食材を仕入れ、珍しく、私が運転して、店に向かいました。


 いつもなら、6時過ぎには、市場を出ますが、7時を随分回って居りましたので、渋滞に巻き込まれ、ノロノロと帰りました。


 その分、普段は話した事も無い、昔話を、失敗談を交えながら話し、彼に期待する私の思いや、店を継いで行く者の、重荷や在り難さについてを、切々と話しました。


 若いのにしてみれば、面白くは無かったでしょう・・・私が若い頃、年配者から意見をされたら、その場で在り難い言葉だと感じた事は、殆んど在りませんでしたから・・・。


 その後も、チョイチョイ遅くなる事は在りましたが、酷く怒らせたのは、あれが最初で最後で、最近は、大分身に着いて来た様で、若いのも随分使える様に成って来ました。



 

 広島市中央卸売市場の初せり



 昨日、1月5日は、広島市中央卸売市場の、初せり(大発会)でした。  


 初競りでは、今年一年の始まりの景気付に、「御祝儀相場」と呼ばれる、意図的に高く設定された高値で取引されるのが慣例に成っています。


 年末年始、天候が芳しく無かった為に、例年より入荷が少なかったものの、場内は、新年を迎えた活気に満ちて居ました。



 実は、私は、年初めからは、広島市内の料亭に依頼されて、料理請負人として、調理場に立つ予定でした。


 其方へは、2年ほど前の年末や、それ以後も、何度か結婚披露宴の懐石料理のヘルプとして、招かれて居りました。



  料理請負人としての私の仕事は、今働いている、割烹の経営者である私の友人が、全て仲介して呉れて居りますので、今回の料亭での仕事も、彼の仲介によるものでした。


 しかし、年末に常連客限定で提供させて戴きました、「懐石御節重」を詰めて居りました時に、申し訳なさそうな顔をして、


 「ハッシー(私の愛称)・・・悪りぃんじゃけど、もうちぃとの間でえぇけぇ、儂んとこで働いて貰えんかのぉ・・・向う(料亭)にゃぁ、儂が、えぇがいに言ぅちょくけぇ・・・頼むわ。」と、申しました。



 「ほぉか、ええよ。宜しゅうたのむわ。」 と、答えましたら、



  「先生、僕だけじゃぁ、未だ自信がないけぇ、これからも宜しく頼みます。」 と、若いのが言いましたので、彼の意向が強く反映された結果だと、すぐに分かりました。



 料亭での仕事は、スタッフの方々とも顔馴染みですし、料理長も、私の意見を快く取り入れてくださるので、気持ち良く仕事が出来ますし、ギャランティーが格段に良く、魅力の職場ですが、それだけに、緊張を維持し続ける為の、精神面での疲労は、半端では在りません


   ここでの仕事に、手を抜いたり、気を抜いている訳では有りませんが、ホームとビジターの違いとでも言いますか、心から楽しんで仕事をさせて戴いて居ります。



 昨日。友人から聞いた話ですと、料亭の方では、日曜日に、結婚式の披露宴が行われる時には、出来るだけヘルプで入って欲しいと言う事と、4月からは、必ず、うちに来て貰いたいとの意向なので、此処で働くのも3月一杯に成りそうです。



 『よっしゃぁ!』と、気合を入れて、今から出勤致します。・・・ 

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by asianokatasumiyor | 2015-01-06 22:21 | 二十四節気
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元宇品の全景


 今朝も、薄っすらと雪が積って居りましたが、心地好い朝日が、部屋に差し込みましたので、朝食の前に、いつもの散歩コースを歩きました。

 今朝は、いつにも増して、散歩やジョギングをされる方が多く、擦れ違ったり抜かれたりしながら、ゆっくりと時間を掛けて歩きました。


 擦れ違う度に、「お早う御座います。と、挨拶をするのですが、挨拶を返して戴けるのは、二人に一人位でしょうか・・・まぁ、無理も御座いません、知りもしないオジサンに、挨拶をされても、怪訝な顔をしながら不審に感じるか、行き成りの事に面食らって仕舞うでしょうし、それに、こんな御時勢ですから、私の様な者でも、変な下心を抱いて居ると思われても心外ですので、御婦人や若い娘さんと擦れ違った場合、軽く会釈して通り過ぎる気遣いをして居ります。

 本当に、ややこしい世の中に成りました。

 そう言えば、元日の散歩の帰りに、元宇品の電停前の駐輪場を通り掛かりましたら、北風が強かった所為か、数台の自転車が倒れて居りました。

 何の気無しに歩み寄って、直して居りましたら、若い男がヒョッコリ現れて、


  「それ、オジサンが倒したんか?」と、如何にも不審者を見る眼つきで申しましたので、

 「いぃや、通り掛かったら倒れちょったけぇ、直しよるんじゃが・・・。」と、申しましたら、

 「ふぅぅうぅん」と、間延びした受け応えをして、先程、私が立て直した自転車に乗って去って行きました。

 『要らんネンダー』 ( 広島弁・要らぬ御節介 ) とでも思ったのでしょうか、御礼を言って貰いたくて、やっていた訳では有りませんが、実に残念な青年でした。


 私は、町内会=親戚・姻戚関係、と、言う様な所で生まれ育ちましたので、子供の頃、毎日の様に、父や母から、

 「あののぉ、ワレ(お前)が知らんでも、相手の人ぁワレの事ぁよぉ知っちょってじゃけぇ、道で人と会ぉたり、人の家ぇ行った時やらは、相手の人より先に、時の挨拶ぅせんにゃぁいけんでぇ。ほいじゃぁ無ぁにゃぁ、儂や、おかぁが、躾が悪りぃ言ぅて、恥ぃかく様に成るけぇのぉ!」と、言い聞かされて育ちました。

 『三つ子の魂百まで』とは申しますが、未だに、その習慣が染み着いて抜けません。

 若い頃までは、美徳とされていた私の習慣ですが、近頃は、どぉも居心地が好く有りません。

 そう言う世情でしょうか。


 とは言いながら、毎日の様に散歩をして居りますと、快く挨拶を返して戴いたり、相手から先に挨拶をされたり、途中で腰掛けて休んで居る時などに、顔見知りと成った方と世間話をしたりする事も御座います。


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 暁橋からの景色・東方面


 今朝、いつもの散歩コースの帰り掛けに、買い物をしようと足を延ばし、宇品中央公園に在ります小学校唱歌「みなと」歌碑の袂で休んで居りましたら、時々御挨拶をする若い御夫婦が、通り掛かられたので、挨拶を致しましたら、普段は、挨拶をするだけなのですが、御主人が歩み寄られて、色々と御話を致しました。


 話しに由りますと、お二人は、元宇品の賃貸マンションに住んで居られるそうで、御主人は、神戸の出身で、2年前から、市内の大学に講師として赴任されており、奥さんが京都の出身と言う事も在り、話しが弾みました。

 前回のブログにも書きました、以前の元宇品の様子や、此の海岸で漁をしていた話など致しましたら、とても興味を持たれた様子で、長話と成り、1時間近くも話し込みました。

 
 私が腰を下ろしていた歌碑に就いても御存知無かった様で、碑文を読みながら、懐かしそうに歌詞を口遊んで居られました。

 その様子を見て、私が、

 「旗野十一郎言う人が、明治の中頃に作詞された歌なんじゃけど、此処の先ぃ行った、元宇品の在る宇品島へ渡る、暁橋の上から、東側の船着き場の様子を見ぃ見ぃ書きんさったんじゃそうです。」と、薀蓄を言いますと、御主人が、

 「島、ですか?!」と、少し驚いた様に仰ったので、

 「そりゃぁ、知らんのも無理ぁ無ぁよね。此処等に昔から住んじょる人でも、島じゃ思ぉちょる人は、少なぁけぇねぇ・・・此の歌が出来る、ちぃと前に、港湾整備の埋め立て工事が始まって、一旦は、本土と宇品島が地続きに成ったんじゃそうです。」

 「ほいじゃが、後に成って、此処いらに住んじょる漁師さんやら、舟で商売する人等が、通りかいするのに、ぶち遠回りせんにゃぁいけん様に成って仕舞ぉて、それで県やら国に陳情して、小舟が通れる位の航路を作り直したらしゅぅて、そん時にゃぁアーチ型の橋じゃったけぇ、此処等の人等は、「眼鏡橋」言ぅて呼びよったらしゅうて、今でも年寄りの人ぁ、「眼鏡橋」言ぅて呼びよるんよ。」と、薀蓄の上乗せを致しましたら、御主人の学者魂と、私の薀蓄に火が点いて、長話と成りました。


 
 御主人や奥さんの、宇品や広島市に纏わる、地誌や歴史等に関する質問に、私が答えながら、薀蓄を加える形で話が進みました。


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 広島城


 広島市は、太田川の河口に広がるデルタ地帯に発達した都市ですが、、中世までは、平野部の殆どは、遠浅の海であり、西側は、己斐・祇園の山裾、北側は、広島駅の新幹線口側の、二葉の里・尾長・温品の山裾が海岸線でした。

 現在も、離島である、宇品島を始め、白島・比治山・江波山・黄金山の在る日宇那・仁保姫神社の在る仁保・中町の白神社やANAクラウンプラザホテルが在る周辺も、似島や金輪島の様に、中世までは、全て沖合に浮かぶ小島で、陽光台の在る向洋の大原が、湾を囲う岬でした。


 広島城の築城が、天和5年(1589)に年に、毛利輝元により着工されたのを契機に、干拓工事が飛躍的に進み、幕末には、ほぼ現在の形と成りました。

 明治に入っても、庚午・宇品で、大規模な干拓工事が着工され、戦後に成ると、草津・観音・江波・出島・丹那・楠那・日宇那・仁保等の大規模な、海岸線の干拓・埋め立て工事が行われ、現在に至って居ます。



 此の一連の薀蓄を、広島弁で、御夫婦に話しました。



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 比治山


 「比治山って、お花見に行くとこですよねぇ・・・あそこも海やったん?」と、奥さんが聞かれましたので、

 「ほぉよね。・・・上に、漫画図書館も在るんよぉ!。・・・儂が、父から聞いた話じゃと、『親父が子供んごろに、爺さんに聞いた話じゃと、爺さんの曾曾爺さんの頃にゃぁ、比治山の浜で、鯛網ぃぃ曳きよったんじゃげな。』、言ぅて言ぃよったけぇ、祖父が、子供の頃を、単純に100年前として、祖父のお爺さんの、曾曾爺さんの代言ぅ事じゃヶぇ、祖父の6代前になるけぇ、1代25年計算で、単純に言ゃぁ250年前言ぅ事ん成るんかのぉ。」と、自分でも、疑心暗鬼でこたえました。


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 江波 の おさん狐


 「あのぉ~ぉ、エバって、どこですか?」と、奥さんが聞きました。

 
 「えっ!江波ぁ知らんのん?」

 「たまぁに、名前は聞くんやけど、行った事も無いしぃ、何処らへんなんか、知らんのんですぅ。」

 「まぁ、しょぉがなぁよ。江波にゃぁこれ言ぅて、何もなぁけぇねぇ、行く様な用事もなかろぉけぇねぇ・・・あっこも、元は島でねぇ、「まんが日本昔ばなし」にも出てくる「おさん狐」の話やらも残っちょるんじゃけど、江波、言ぅなぁ、宇品からじゃったら、西に向いてって、3本目の、本川を渡って、ちぃと行ったら、路面電車の通りと交差するけぇ、それが、広電の江波線なんじゃけど、そこを左に曲がって真直ぐいきゃぁ、自然と終点に辿り着くんよ。」    

 「小高い山の上にゃぁ、「江波山気象館」言ぅて、元は、広島の気象観測所じゃった文化施設が在って、展示やら、イベントとかも遣りよるらしぃわぁ・・・そぉ言ゃぁ、山の上に、広島じゃぁ老舗のフランス料理の「シェ・山来」言ぅレストランが、在るんじゃけど、若いごらぁチョイチョイ女の子やらぁ連れて行きよったんじゃが、儂ゃぁ独りモンじゃけぇ、オジサンが独りで行くんは、風が悪りぃけんねぇ、独りで行く様な店じゃぁ無いんよ・・・長ぁ事行っちょらんけぇ、よぉ分からんけど、評判はえぇみたいなけぇ、御夫婦で行っちゃったらえぇよ。」と、言うと、

 「他にも、御勧めの店とか有りますか?」と、御主人が聞かれましたので、

 「ほぉよのぉ、御勧め言われてものぉ・・・江波じゃったら、ラーメン屋の「陽気」言ぅ店の本店が有名じゃけど、江波山の南げらに在るんじゃけど・・・儂が、小学生のごらぁ、ラーメン屋台をしよりんさって、儂の伯父さんが、よぉ食いに連れてって呉よったんじゃが、中学生のごろじゃったかに、今ん処に店ぇ出しちゃった言ぅんで、伯父さんが連れてって呉れたんよ。」

 「ぶち旨かったんを憶えちょるよぉ・・・ほいじゃがねぇ、あんごらぁ、今みたいに、グルメじゃ何じゃぁ言ぅ時代じゃぁ無かったし、この国自体も、今ほど豊じゃぁ無かったけぇ・・・若し、今の人がタイムスリップして、あの時のラーメンを食べても、そがいに旨いとは思わんと思うよ・・・今頃の人ぁ、舌が肥えちょるんじゃけぇ・・・それにねぇ、「食い物」言ぅなぁ、「好み」じゃけぇ、どがいに旨い行列店のラーメンたぁ、出前一丁の方が旨い言ぅ人が居るんじゃけぇ・・・こりゃぁどぉ仕様も無い事じゃ思うんよ。」
と、言いますと、

 「結局、そこのラーメン、美味しくない言ぅ事ですか?」と、御主人が言いましたので、

 「いやぁぁ、そこそこは、上手いと思うんじゃけど、儂の口にゃぁ合わん言ぅだけよね。」


 
 「それじゃぁ、土師さんは、何処のラーメンが好きですか?・・・僕、ラーメンが好きなんで、教えて貰えませんか。」と、聞かれましたので、


 「前はねぇ、B級グルメ道を極める言ぅて、友達やらと、あっちこっちの店を食べ歩きよったんじゃけど、足ぃ悪りぃしてから、デブの出不精に成ったけぇねぇ・・・ほれに、独りじゃと、ラーメン屋にも、よぉ入れん性分じゃけぇ、前ほど食べに行く機会が減ったんじゃけど・・・あくまでも、儂の好みじゃけど、東白島に、「松馬」言ぅ店が在って、儂は、ニンニクが駄目じゃけぇ、普通のラーメンを食べたんじゃけど、連れの話じゃと、黒や赤が旨いらしいよ。・・・それと、宇品から近い所じゃと、丹那、言ぅて、南警察署のチョッと先に成るんじゃけど、黄金山通りの海側に、「二代目もんごい亭」言ぅ店があって、そこも、割と旨いよ。・・・どっちか言ゃぁ、こっちの方が、儂の好みに近ぁかも知れんねぇ・・・じゃが、最近は、食べ終わった後に、もう一杯欲しいと思う様なラーメンにゃぁ、広島じゃぁお目に掛かれちょらんねぇ。と、言いましたら、


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 本土と宇品島を繋ぐ暁橋


 別れ際に、ふと思い出しまして、

 「昔、父から聞いた話じゃけぇ、ほんまかどぉかは分からんのんじゃけど、暁橋は、離島と本土を繋ぐ橋じゃぁ、日本一短い橋なんじゃそぉです。」と、言いますと、

 「そうなんですか・・・そうでしょうねぇ、今まで、岬やと思ぉてたぐらいですから・・・今日は、ほんとうに有難う御座いました。」と、笑顔で会釈をされて去って行かれました。


 仕事柄、と言う事も有るのでしょうが、とても品の良い御夫婦です。


 休み中は、天気が悪かった所為もあり、近くに住む、妹の所へ行く以外は、取り分けて外出はせず、独り住まいの私は、精々、コンビニの店員の方に挨拶をするくらいでしたから、人恋しさも手伝ってか、長話をして仕舞いました

 
 今日は、母の誕生日だった事を想いだし、生きていたなら何歳だろうか、とか、正月は、私が作る雑煮を楽しみにしていて呉れた事など、あれもこれも次々と思い出され、少し寂しい気持ちに駆られながら、買い物に向かいました。・・アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-01-03 22:16 | 日常の風景

元旦の挨拶


 宮島の弥山からの初日の出
 






  本年も 宜しく お願い致します



  皆様の 健康と 御多幸を 心より祈念致します 



 旧年中は、皆様から、格別の御引き立てを賜わり、粗忽者の私ですが、御蔭を持ちましてまして、なんとか人並みに過ごす事が叶いました。


 此れもみな、皆様の御蔭と感謝しつつ、尚一層の御引き立てと、御親睦を賜わります様、心より御願い申し上げます。


 今年は、年賀状も書かず、電話もかけず、メールも打たず、ブログにて、新年の御挨拶をさせて戴きます。

 昨年の、12月12日から、顧客の方々 ( 占術家&子授け整体の私の顧客 ) からの要請を受けて、顧客の方々に、私の近況などを知らせ、連絡を取り合うツールとして、2年振りにブログを再開致しました。


 そう言う事情ですから、私から、顧客の方々に向けて、私の近況や、私の考えや、それに至る私のエピソード等を伝える為に書いて居ります。


 従って、内容も、個人的でマニアックで、一般の方ですと、三行ほど読んだら、消して仕舞うでしょうし、最後まで読まれたら、『壊れてる』と思われるかも知れませんが、確かに、変り者ですが、自分では、人格崩壊には至っていないと思います。


 私には、現在、生業としている、料理請負人としての顔の他に、占術である、三元派北斗流推命術の継承者としての顔と、柔道整復師として始めた、妊娠し易い身体造り・「子授け整体」の指導員」としての顔が在ります。


 3年前に、交通事故に由り、右膝関節粉砕骨折の重傷を負い、以前の様に、肉体派の仕事が困難と成りました為に、友人の仲介を得て、料理請負人を生業として、広島市内を中心に、料亭や割烹、旅館やホテルなどから依頼を受け、厨房で働かせて戴いて居ります。


 以前は、100㎏を超える荷物さえ、軽々と担いで居りましたが、今は、杖無しでは移動も儘ならず、狭い厨房内を移動したり、同じ場所で、立ち仕事をする料理人の仕事なら、なんとか熟せます。


 料理請負人と申しますと、「 包丁一本晒に巻いて … 自分の腕を頼りに名店を渡り歩く 」 と、言った、任侠道にも似た、男の美学の匂いが、ムンムンと立ち込めるイメージを抱かれる方が多い様です。 


また、以前、『週刊漫画ゴラク』『別冊漫画ゴラク』 で連載されて居りました、『ザ・シェフ』 の主人公、天才シェフ・味沢 匠( あじさわ たくみ )を思い浮かべる方も多いかも知れませんが、私には、彼の様な技術も、華麗なる経歴も在りません。


 それどころか、3年前まで、料理人を主たる職業とした事さえ有りませんでした。


 では、どう言った経緯で料理請負人をしているかと申しますと、以前に掲載したブログを読まれた方ですと、在る程度の想像はつくと思いますが、この機会を利用して、私の、「食に纏わる略歴」を、紹介しておきたいと思います。


 私は、広島の漁師の次男坊として生まれ、見様見真似で魚を捌く内に、小学生の頃には、刺身の盛り合わせを造れる様に成っておりました。


 実家は、裕福では無かったので、小遣い稼ぎの為に、小学生の頃には、親戚の漁師のお爺さんの、手伝いなどしておりましたが、中学生に成ってからは、そのお爺さんの娘さんが経営する、お好み焼き店でアルバイトを始めました。


 そこで、お好み焼きと、たこ焼の技術を身に着けました。


 高校に進学すると、父の友人が経営する、小さなドライブインで、アルバイトをする様に成り、そこは、喫茶に和食に洋食に、ラーメンまで出していた為、3年間、アルバイトに通う内に、一通りの料理を作れる様に成りました。


 高校を卒業する頃、寿司職人に成りたかった私は、当初は、大阪阿倍野の辻調理師専門学校へ入学願書まで提出していましたが、或る出来事に因り、断念し、京都の駅弁大学に進学致しました。


 大学に入学するなり、職安で、例の、一口 ( いもあらい ) の ドライブインのアルバイトの募集を見付けて門を叩き、5年間アルバイトを続け、3回生の時に、オーナーの勧めで、調理師免許を取得させて戴きました。


 また、在学中に、友人の実家である、老舗和菓子店で、和菓子造りの手解きを受け、親しくして戴いた、オーナーパティシエから洋菓子造りの手解きを受けました。


 卒業後は、大阪の、証券関係の会社に就職しましたが、就職して一年余り経った頃、東京の荒川で、鳶職の建築会社を経営して居りました伯父から、持病が悪化して、思う様に働けなく成ったので、経営を手伝って欲しいと懇願されました。


 バブル全盛期の、花形の業種でしたが、金と駆け引きと接待の毎日に、田舎育ちの私は、嫌気がさして居りましたので、渡りに船で、会社を退職し、伯父の会社へ就職致しました。


 程無く、ゼネコン関連で、台湾で港湾施設を建設する仕事を受注し、私は、重機オペレーターとして、台湾の高雄市に渡りました。


 高雄では、お気に入りの中華料理店を見付け、御主人に頼み込んで弟子入りし、工事現場の仕事を終えると、夕刻から厨房の下働きを無償でし、休日には、朝から晩まで厨房で下働きをしながら、中華料理の手解きを受けました。


 伯父の急逝により、半年で急遽帰国し、その後、一口 の ドライブインのオーナーの計らいで、河豚調理師資格取得の為、京都の老舗料亭で修行させて戴き、大阪で河豚調理師の資格を取得しました。


 昭和62年9月、結婚を機に帰広し、漁業に従事しながら、鮮魚の卸売業を営み、傍らで、友人等の経営する飲食店の手伝いをしたり、新メニューの考案や、新店舗開店のプロデュース等も手掛けて居りました。


 

 この時期に 日本料理専門調理師と日本料理専門技能士の資格を取得致しました。


 その後、体調を崩し、廃業し、平成2年に、師の計らいに由り、広島市の外郭団体へ入社し、16年勤めますが、平成19年、外郭団体の解体に因り退職しました。


 すぐに、広島市内で、接骨院を開業し、傍らで、、友人等の経営する飲食店の手伝いをしたり、新メニューの考案や、新店舗開店のプロデュース等も行い、 この時期に、職業訓練指導員 ( 日本料理科 )の資格を取得しました。


 平成23年に交通事故の為、右膝関節粉砕骨折の重傷を負い、現在に至った次第です。


 和食の料理人を生業とするなら、調理師免許と河豚調理師の資格が在れば十分です。


 職業訓練指導員 ( 日本料理科 )とは、平たく言うと、公認の調理専門学校の日本料理の先生が出来る資格です。


  『資格は、持って居ても荷には成らないから、若い内に、取れる機会が在ったら、どんどん取っておきなさい。』 と言う、恩人であるドライブインのオーナーの言葉に触発されて、『資格マニア』となった私ですが、50年余り生きて来て思う事は、 『確かに、荷にゃぁなりゃぁへんし、役に立つ事も有りゃぁするんじゃが、要らんモンも多ぃぃのぉ。』 と言う事です。


 日本料理専門調理師と、日本料理専門技能士の資格の取得に関しては、調理師を生業としていない、自らのスキルアップと、箔を付ける為に、物凄く努力して、意地で取りましたし、取得してからは、一目置かれる様に成りました。


 しかし、職業訓練指導員 ( 日本料理科 )に関しては、かなりの手間と時間と金を掛けて取得した事を、少し後悔しています。


 譬えると、車を弄るのが好きで、エンジニアに成りたい人間が、工業大学へ進学したのは良しとして、教職課程を経て、中高の技術の教員免許を取る様なものです。


 私は、料理が好きで、作った調理で人に喜んで貰える事を、至上の喜びとしているだけで、人に技術を伝えるのが苦手ですし、『和食文化の更なる向上と、後進の育成に寄与する』 と、言った、崇高な理想は持ちませんし、悟りを得た様な人格者でも在りません。


 遣りたい仕事を、遣りたい様に、自分のペースで遣りたいのです。


 自分で飲食店を経営したり、誰かが経営する店の従業員に成ったり致しますと、それに見合った重責が生じ、こんな我儘は許されません。


 チビで、デブで、ハゲの、足の不自由なオジサン独り、寝るのに畳一畳、一日に米三合と、味噌と少しの野菜が在れば十分ですし、料理人をしておりますと、賄 ( まかない ) が付きますので、食費もそれほど要りません。


 私は、酒も煙草も賭け事も致しませんし、この歳に成っては小便をするだけ・・・此の身一つを養うのは容易いのです。


 料理請負人を生業としているのは、こんな事情に由ります。


元宇品2

元宇品から宮島を望む


 広島では、昨日から降り続いた雨が、未明に雪へと変わり、明け方には、3㎝ほど積もりました。


 午前中には、天気が回復して、午後には雪も、すっかり解けて、陽も射しましたので、元宇品の海岸縁の 周遊歩道を散歩しました。


 北風が、とても強く吹いて居りましたし、元日の昼下がりですから、私くらいのものかと思いましたが、随分、大勢の人と擦れ違いました。


 普段は、こんな時間に散歩している人は、殆んど居りませんが、朝方、積雪が在りましたので、皆さん、思う処は同じ様です。


 遠くに宮島を望み、暫く立ち止まって、海の息吹をゆっくりと吸込んで居りました。


 『やっぱり、海はえぇのぉ・・・京都にゃぁ住まりゃぁせんよぉのぉ!』 と、心の中で呟いて居りました。


 昨年末、京都へ行き、手術後の療養で入院中の義父を見舞った折、


 「あんたも、独りで広島へ居っても、しゃぁないやろ・・・ワテらと一緒に言ぅんは、かなわんよろから、マンションの空とる部屋に、娘と住んだらえぇがな・・・仕事なら、なんぼでも在るやろし、なんやったら、自分で、店、出したらえぇがな。」 と、仰ってくださいました。


 在り難い申し出でしたが、丁重に、御断り致しました。


 こんな身勝手で、ヤクザな父親では、一緒には住めません。


 海も好きですから・・・。


元宇品3

 元宇品から観た宇品港

 それにしても、今日は、北風が強い一日でした。


 その分、空気が澄んでいて、日差しに水面が煌めき、島々が一層、美しく感じられましたので、写真に残したいと思いましたが、写真など撮る気が在りませんでしたので、カメラを持って来ておりませんし、徒歩で帰ってから来るには、しんどく思われましたし、携帯電話で撮りましたが、私のは、もう誰も使っていない様な、古いガラ携で、解像度が極めて低いので、雰囲気だけ感じてください。


 こうして、海を見ながら、歩いて居りますと、昔の元宇品の様子が思い出されました。


 この先に在ります、お洒落な結婚式場・ シーサイドガーデンハウス・リーベリアが在る場所には、私が小学生の頃まで、宇品水族館が在りましたし、上の写真の砂浜は、海水浴場でした。


 グランドプリンスホテル広島が在る場所には、私が高校生の頃まで、割と大きな造船所が在って、チヌ(黒鯛)や鱸(スズキ)の良い漁場で、父と、よく漁にきて、網を仕掛けて居りました。


 今は、昔の話です。 


 私の、お散歩コースである、元宇品の海岸縁の周遊歩道は、プリンスホテル側からは、辛うじて車で入れますが、道幅が狭く、ガードレールも在りません。


 結局、宇品港側で、行き止まりに成って居ります。


 シーサイドガーデンハウス・リーベリアの所の入り口は、頑丈な三重の鉄柵で塞がれていて、原付さえ侵入出来なく成って居ます。(それなのに、車両侵入禁止の交通標識が立って居ますので、自転車も入ってはいけないのでしょうが、自転車が通るのは能く見掛けますし、迷惑にも成りません。)


 景色を楽しみながら、街の雑踏も気にせずに、ゆっくりと散歩が出来る、近隣の人々の人気の散歩道です。


 元宇品には、もう一つ散歩コースが在りまして、それは、元宇品の小高い山の、原生林の中を内回りするコースで、距離としては、若干短いものの、アップダウンがきつくて、上級者向けですが、新緑の季節には、海岸縁で在りながら、木々の香りに満ちた、森林浴が出来、途中に小さな灯台も在る、魅力のコースですが、墓所が多いのと、民家などが全く在りませんから、薄暗い時間帯での、婦女子の散歩には不向きと思います。


 足を悪くする前は、このコースをジョギングして居りましたが、今は、海沿いの道さえ、休み休みでないと散歩できない状況です。 


 粉砕した膝関節は、悪くは成っても、1ミリも良く成る事は在りません。


 リハビリ治療を受けて居りますが、現状維持に留まり、最も有効なのは、膝に掛かる負担を軽くする為に、体重を減らす事に尽きます。


 膝が悪いので、走る事が出来ませんし、膝が90度しか曲がりませんので、自転車を漕げませんし、スポーツジムに行っても使えるマシンや運動が限られます。


 この様な場合、何よりも有効な事は、カロリーコントロールですが、此れが最も難しく、常に心掛けては居りますが、なかなか成果を得て居りません。


元宇品
 元日の宇品港

 昨年は、膝のリハビリと、料理請負人の仕事に重きを置いて、のんびりと静養させて戴きましたので、ある程度の距離なら、杖無しでも移動出来るまでに回復致しました。


 今年は、多くの顧客の方々から、強く請われましたので、三元派北斗流推命術に依る占術の鑑定と、「子授け整体」に依る、妊娠し易い身体造りの指導を、体調と時間の許す限り、皆さんの要請に応えて行く所存です。


 その為に、ブログも再開しました。


 昨年末から、名付けに関する姓名学の鑑定を2件、墓相を観て欲しいと言う陰宅風水に関する依頼を1件と、子授け整体に関する依頼を2件頂いて居ります。


 陰宅風水に関する依頼と、子授け整体に関する依頼に関しては、私が、直接出向かなければならず、料理請負人の仕事の日程が、未だ、決まって居りませんので、週明けには、日程も決まる予定ですので、出来る限り早急に、御返事致します。


 尚、紹介者の方から聞き及んで居られると思いますが、私は、占術の鑑定も、、子授け整体の指導も、生業として居りませんので、高額な報酬を請求する事は御座いません。


 占術家にも、柔道整復師にも、強い守秘義務が在り、依頼に由って知り得た情報を他言する事は有りませんので、どうか安心なさって、御相談ください。


 愚者の私ですが、譬え線香ほどの存在で在っても、世の光」と成れる様、ゆっくりながら、前に向かって歩んで参ります。・・・アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-01-01 22:14 | 感じた事