占術・三元派北斗流推命術の継承者として、世の中で見聞きし出会った事を、日々綴って参ります。


by 魚のおじさん
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 平成2年当時の京都駅


 
京都駅に到着したのは、午後9時前でした。

 

 
京都御所と平安神宮の間に在る病院まで、精々20分程度だったと思いますが、どれだけ長く感じた事か・・・月曜日とは言え、クリスマスイヴのこの日、街は華やいで居りました。

 
病院に到着し、もどかしい思いで夜間受付の手続きを済ませると、妻の病室を目指しました。

 
病室に着くと、既に、入り口の周りに親戚の方や数人の友人が集まって居られ、私を見ると、病室に入る様に促されました。


 
病室に入ると、看護婦さんが付き添っておられ、ベットの傍に義母が娘を膝に乗せて座り、その傍に、義父が寄り添い、義妹が足元の方に椅子を置いて座って居りました。

 
「とうさん!」と、病室に入った私に気付いた娘が呼びましたので、寄って抱き上げますと、妻も気付いた様子で、少し首を横に向けて、閉じて居た目を開いて私を見ようとして居りました。

 「芙美ちゃん!」と、覗き込みながら声を掛けますと、僅かに頷きました。

 
何か話したがっている様子で、娘を義母に託して跪き、手を握ると、看護婦さんが酸素マスクを外してくださると、か細い声で、

 
「兄さん、来てくれたん・・・」と、囁く様に言うと、2、3度、浅い深呼吸をして、

 
「今まで、ありがとう・・・ほんとに、ありがとう・・・ありがとう・・・。」と、言うと、フゥゥッと溜息を吐くと、安心した様に目を閉じましたので、看護婦さんが再び酸素マスクを着け直しました。

 
右手で妻の左手を握ると、妻が握り返しましたので、左手でお腹を擦りながら、妻の顔を見詰めて居りました。


 
10時頃に、担当医が来られて、触診などをされた後、義父と私に廊下に出る様に促され、

 
「奥さんは、私等さえ頭が下がるほど頑張って来られました。・・・私等も、出来る限りの事を致しましたが・・・残念ですが、覚悟をなさってください。」と、話されましたので、私が口を開こうとしましたら、それを察する様に、

 
「お腹の、お子さんも未だ未熟で・・・非常に残念ですが、諦めてください。」と、淡々とした口調で仰いました。

 
駆けつけて戴いた親族や友人の方々が、一人一人、昏睡状態に入った妻の手を握って声を掛け、私等に挨拶をされて帰って行かれました。

 娘は、義母に抱かれたまま眠りましたので、付添い用のベットに寝かしつけました。

 
私は再び妻に寄り添って、右手で妻の左手を握り、左手でお腹を擦りながら、妻の顔を見詰めて居りました。

 
病室には、リズミカルな人工呼吸器や計器の音と、妻を見詰める皆の息遣いと、私が妻のお腹を擦る微かな音が漂って居りました。


 
やがて、妻の異変に気付いた看護婦さんがナースコールを押すと、医師と数人の看護婦さんが駆け付けて来られ、脈拍や瞳孔を確認された後、妻が死亡した事を告げたのでした。


 
2時17分でした。


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 京都駅のイルミネーション


 
妻の通夜は、その日の内に、妻の実家で行われました。


 
葬儀は、京都市内の大きな斎場を借りて行われ、本当に沢山の方々が、参列してくださいました。


 
祭壇には、結婚した時に撮った写真を飾らせて戴きました。


 喪主は、義父が勤められましたので、霊柩車には乗らず、娘と義母と義妹と一緒に、霊柩車の後に続いて行きました。

 
どんよりと曇った冬空の下、未だクリスマスの余韻の残った街を通り抜けながら、山科の花山に在る火葬場に向けて、車は走って居りました。・・・アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-02-28 17:15 | 想い出
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 宇治の平等院 鳳凰堂


 9月に入った頃には、妻の病状は悪化して、何もしなくても、病巣から少量の出血が有り、腹痛を伴う様に成って居りました。

 10
月の中頃に、出血量が急に増加し、入院を余儀なくされました。

 
貧血の為に顔色は青白く成り、随分と痩せました。

 
そんな病状でも、お腹の子供に影響する為、鎮痛薬などは一切使わず、相当の痛みが在った筈なのですが、弱音を吐いた事は一度も無く、激痛が走った瞬間にも、顔を歪める事も無く、「ウッゥ」と、小さく呻きを漏らしながらも、歯を食い縛って耐えている様でした。

 
その甲斐在って、お腹の子供は順調に育ち、妻のお腹も随分膨らんで、胎動も活発になり、「今、蹴ってはるぅ!」とか、「母さん痛いやんか。大人しぃしときや。」と、話し掛けながら、お腹を擦って居りました。

 
最初に検査入院した時の検査結果で、肺と肝臓への転移が判明し、当時の医療技術では手術の施し様が無く、主治医も、少ない可能性に掛けて、胎児の出産に全力を傾けると仰って居られました。


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「京都大学医学部附属病院」


 
主治医の話では、1月の後半まで体力が持てば、帝王切開での出産が可能に成るとの事で、妻の体力が、其処まで持つかどうかについては、明言できないと仰いましたので、可能性は低いのだろうと感じて居りました。


 
11月の中頃、入院中の妻を見舞いましたら、正視するのも辛い程に痩せて、顔色も悪く成って居りました。

 
それでも優しい心根も表情も失わず、付いて来た娘を傍に寄せると、

 
「実紗、母さんのお腹、触ってみぃ、大きいやろぉ。お腹の中になぁ、実紗の妹が居んのやで。実紗もな、こぉやって母さんのお腹の中で大きゅうなったんや。・・・妹がな、お腹の中で産まれるよぉ言ぅて頑張ってはるから、母さんのお腹ぁ擦って、頑張ってぇ言ぅて応援したげてや。」と、言って娘の手を取ってお腹に宛がうと、娘も小さな手の平で、妻のお腹を擦りながら、 「頑張りやぁ、頑張りやぁ。」と、囁きながら、呼び掛けて居りました。

 
当時、娘は2歳半でしたが、この時の事を、未だに鮮明に覚えて居るらしく、妻の、お墓参りの折は、産まれる事の無かった妹の為の百合の花も供えて居ます。

 
妹と申しては居りますが、妻や娘が、そう感じて居ただけで、実の処、性別は不明でしたが、私も娘だったのだと感じて居ります。


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 晩秋の北野天満宮(もみじ苑)


 
12月に入ると、妻の病状は、悪くなる一方でした。

 
病巣からの出血が酷く、輸血を必要として居りましたが、妻はAB型でしたので、私は一滴もあげる事が出来ませんでした。

 
義母や義妹や親戚や多くの友人が、妻の為に献血をしてくださいました。


 
義父が、入院当初から、付添い用のベットや、トイレやシャワー室も完備された特別室を借りてくださって居りましたので、義母と、当時は学生だった義妹と、妻が幼少の頃から住み込みで働いておられた家政婦さんが交代で、妻の付き添いをしてくださいました。


 
多くの方々が、妻の願いを叶える為に、心血を注いでくださいました。


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 晩秋の京都御苑


 
12月の中頃に妻を見舞った時、その日は病状も落ち着いて居て、枕元のラジカセで、お気に入りのダイアナ・ロスの曲を聴いて居りました。

 
いつ行っても、その曲ばかりをかけて居りましたので、理由を聞きましたら、詩の内容が好きなのだと答えました。

 
妻は、国連英検の特A級を取得して居り、TOEICでフルスコアに近い加点を出し、レベルAの評価を得る程、英語が堪能で、仏語や独語や伊語も、或る程度話せましたので、広島に居た頃は、ボランティアで通訳も致して居りましたが、私は、日本語さえままならない不勉強な愚者ですから、詩の意味など分からず、「優しい感じの、えぇ曲じゃのぉ。」と、言って聞いて居りましたが、今、訳詞などを見ますと、当時の妻の心を支える、大切な曲だったのだと思います。


 曲を聴き終わって、他愛も無い話をして笑って居りましたら、妻が、急に真顔になって、

 「あのなぁ、お兄さん ( 妻の私への呼称 ) ・・・ ウチが死んだ後の事やけどなっ・・・お兄さんには、世の光の為に生きて欲しぃんや。」

 「はぁっ!?」と、声を漏らしてキョトンとしましたら、

 
「世の光の為に生きてやッ!・・・兄さんには出来るしぃ・・・兄さんは器用やから。」

 「それからな、娘等のことやけど・・・父さんや母さんに任したげて。ウチが兄さんと結婚したさかい、寂しかったんやと・・・ウチが死んで、居らんことなったら、寂しぃなるやろ。」

 「そいで、兄さんは、未だ若いんやし、どっかでえぇヒト見付けて結婚してな。兄さん、寂しがり屋やさかい、独りぼっちで生きて行けへん人やもん。・・・でもな、娘等の誕生日とかには、忘れんと御祝いしたってな。」と、言い終わると、少しお腹に差し込みが来た様で、チョッと眉を顰めてベットに沈み込みましたので、「だいじょうぶかぁ。」と、お腹を擦りながら言いましたら、「大丈夫やから、今、言ぅた事、頼むなぁ。」と、小さく笑って言いましたので、

 
「アンタぁ、病人なんじゃけぇ、要らん気ぃ使わんと、ゆっくりさして貰ぉちょきんさい。」と、言って、時折、お腹の子供の胎動を感じながら、妻のお腹を擦り続けて居りました。


 
妻の様態が急変したと、義妹から連絡が入ったのは、12月24日の夕刻の事でした。


 
すぐに支度をして、新幹線に乗り込みましたが、幾らか覚悟はしていたものの、何をどうすれば良いのか、考えようもつかないまま、妻の無事ばかりを祈りながら、ぼんやりと車窓を見詰めて居りました。・・・アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-02-27 17:56 | 想い出
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 広島の浜辺の景色


 
広島に帰ってからは、独りの部屋で生活し、出勤しては帰宅し、独りで一人分の料理を作り、独りで食事をし、独りで眠る日常を過ごして居りました。

 
唯一の楽しみは、日に一度、妻と娘に電話をして声を聞く事でしたが、元々、電話が苦手な私は、顔を見ずに話すと話題が浮かんで来ず、「元気にしちょるか?」くらいの言葉を掛けるくらいで、特別の話題も無く、妻の話を聞くばかりで終わって居りました。

 
2週間に一度、週末に新幹線で京都に行き、ビジネスホテルに一泊して妻や娘と過ごし、夕食を一緒に食べた後で広島に帰ると言うパターンで、遠出も出来ませんので、義父の車を借りて、京都周辺の観光地や、想い出の場所などを、のんびりと回って過ごして居りました。

 
妻は、検査入院から退院後、実家で過ごしながら、週に一度、病院で診察を受け、日曜日には、義母に付き添われて娘を伴い、教会の日曜礼拝に参列して居りました。

 
娘が、正式なカトリックの洗礼を御受けしたのも此の頃でした。

 
そんな8月の初めの日曜日に、妻と娘が、朝のミサを終えて帰って来るのを、妻の実家の応接室で待って居りますと、10時過ぎに、義母の車で帰って参りました。

 
義母は、帰って来るなり、

 
「土師はん、今からドライブに行くさかい、アンタも来よし。・・・何してんのや、芙実子と実紗ちゃんが車で待ってんのや。早ぉしぃや。」と、仰って、サッサと出て行かれました。

 取り敢えず、家政婦さんに挨拶をして、義母の後を追って駐車場に向かいますと、妻は義母の車の助手席に座り、義母と娘は後部座席に座って居りました。

 
車の脇で棒立ちに成って居ると、ウィンドを下げて、義母が、

 「何してんのや、アンタが運転してやぁ。ウチは、実紗ちゃんの面倒看んとあかんしな・・・なぁぁ実紗ちゃん♪」と、仰ってウィンドを下ろしたので、車に乗り込みますと、

 
「あんじょう運転してや。ウチの車やし、傷ぅ付けたらあかんでぇ。」と、笑いながら言うと、

 
「今日も朝から暑いしなぁ、お山にドライブに行こぉ思ぉてなぁ。」

 
「はぁぁ?お山ですか?」

 
「アンタ、何年京都に住んでんのやぁ。お山にドライブに行こぉ言ぅたら、比叡さんに行くんに決まってるやろなぁ・・・早ぉ行きよしな。」と、仰いましたので、

 『儂ゃぁ京都に住んじょる分けじゃぁ無ぁんじゃが・・・。』と、思いながらも、何と無く嬉しく感じ、車を発進させました。


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 比叡山ドライブウェイから琵琶湖を望む


 
平成2年の夏は、本当に暑い夏でした。・・・連日、35℃の猛暑日を超え、「猛暑」と言う言葉が使われ始めたのも、此の頃が初めだったかも知れません。

 
京都で、比叡山と言えば、天台宗の総本山で在る、「比叡山延暦寺」を思い起こされるでしょうし、現在は、ユネスコ世界文化遺産にも登録され、当時も京都の重要な観光地でしたし、比叡山ドライブウェイだけでも、年間100万人を超える来場者が在ります。

 
比叡山延暦寺と言えば、後に天台宗北嶺大行満大阿闍梨、大僧正となられた、私が尊敬してやまない、酒井雄哉 氏が居られましたので、特別な思いが在りましたが、義母や妻には、「夏でも涼しいお山」と、言うイメージしか無い様でした。

 当時は、現在ほど、観光施設は充実して居ませんでしたが、それでも、レストランで食事をしたり、公園を散策して写真を撮ったりして、楽しく過ごしました。

 
平地と比べて5℃以上気温が低いとは言え、30℃近く在ったでしょうが、カラリとした風が心地よく、楽しいばかりで、暑さが気に成る事は在りませんでした。

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 比叡前にある登仙台駐車場から京都市街を望む


 妻に無理をさせてもいけませんので、早目に切り上げて帰りました。

 
一旦、妻の実家に帰り、広島に帰る支度を整えて京阪宇治駅へ向かおうと致しましたら、義母に呼び止められ、

 「ちょっと待ちよしな・・・どぉせ店に寄って、ウチの人に挨拶して行かはんにゃろ。やったら用事もあるし、ウチが乗せてったげるわぁ。」

 そう仰ると、茶舗に出て居られる義父の所に送ってくださり、義父に挨拶を済ませると、茶舗から京阪宇治駅は、そう遠くないので歩いて行くと断りましたが、送ってくださり、車を駐車場に止めてホームまで見送りに来てくださいました。

 電車が到着して
、発射のベルが鳴りだしましたので、電車に乗り込もうと致しましたら、別れ際に、茶舗でも売られている、義母の手作りの、抹茶飴の袋を私に握らせると、

 
「アンタ、今度は、いつ来んのや。・・・今度来る時はな、勿体無いさかいにな、ホテルなんかに泊まらんと、ウチへ泊りぃさ。ウチの息子なんやさかいになっ!」と、仰いました。

 突然の言葉に呆気にとられ、「はっぁ、はぁぁ・・・。」と、返事をしながら電車に乗り込んで振り返ると、義母が少女の様に手を振りながら、笑顔で手を振って居る姿が目に飛び込んで来ました。

 
私は、閉じたばかりのドアに張り付く様にして手を振りました。

 
義母の姿は、すぐに見えなくなりましたが、今も、その光景を忘れる事は在りません。


 
妻とドライブに出かけたのは、その日が最後と成りました。


 
帰りの新幹線の中で、妻や娘の事を考えながら、義母の思いを噛み締めて居りました。・・・アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-02-26 21:25 | 想い出
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 夕映えの宇治川 


 
マンションに帰ると、妻と今後の事について話を致しました。

 
「手術をせずに子供を産む」と言う、妻の意志は変わりません・・・両親や家より、私の様な愚者を選んで駆け落ちした女性ですから、表向きは温和ですが、中身は驚嘆する様な強い心を持った女性でした。

 
彼女の最後の願いを叶えられる様に、どんな事でもしなければ為らないと思いました。


 
主治医の話では、妻の場合、子宮頚部に発症した癌が、子宮内膜や卵巣にも転移して居り、広汎子宮全摘出術と言う手術を行う必要が在り、お腹の子供も、術後の妊娠も、諦めなければ成らないとの事でした。

 
また、他の臓器に転移している可能性 ( 後に行った検査で肺と肝臓への転移が判明しました ) も有り、手術を行わない場合の余命は半年と宣告されました。

 
妻は、妊娠4週~5週程度の妊娠初期で、出産予定日は2月の中頃でした。

 
あと8か月・・・私は、何を為すべきか、考えに考え抜きました。

 
 
私は、妻の御両親に、手紙を書きました。


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 夏の風物詩 宇治川鵜飼船


 妻の実家へは、二人で広島に戻ってから、結婚式の招待状と、娘が産まれた事を知らせる手紙を書きましたが、孰れも何の連絡も頂けず、毎年、年賀状も書いて居りましたが、返信は頂けませんでした。


 当然の事だったと思います。


 手紙に、妻の病気の事と妻が子供を産む決意を固めた事、その為に、私は、どんな事でもしなければ為らないと考えている事を、此れまでの私の非礼についての謝罪の言葉を添えて綴りました。

 手紙を書き終えたのは深夜でしたので、中央郵便局の深夜受付の窓口まで出向いて、速達で出しました。


 翌々日の夕刻に、義父から電話を戴きました。

 義父と御話しするのは3年振りの事でした。

 元々、義父は、私と妻が交際する事に、それほど反対されて居られた分けでは無く、義母が大反対されて居りまして、最後に御会いした時(妻との交際を認めて戴く様に御願いする為に、妻の実家を訪ねた時)に、有らん限りの罵りの言葉を私に浴びせましたし、娘を奪って行った私の事を恨んで居られましたから、義父が電話をしてくださったのでした。

 一通りの御挨拶を済ませると、妻に受話器を渡し、久し振りの親子の会話に、2歳に成ったばかりの娘も加わり、長い時間話して居りましたが、電話を替わる様に言われた妻から受話器を受け取ると、義父が、

 「あのなぁ、ウチのとも、話しぃしたんやけど、あんたも仕事が在るやろし、小さい子ぉを看ぃ看ぃ芙実子の看病も出来へんやろ・・・そやから、どぉやろなぁ、実紗ちゃんの面倒も、うちで看るさけぇ、こっちへ来て治療したらどないよろぉと思うんやけどなぁ・・・こっちには、えぇお医者さんも居ってやし、えぇ病院も在るさけぇなぁ。と、仰いました。

 「ほいじゃけど・・・」と、私が言いかけましたら、

 「頼んますわぁ!・・・ずぅっと心配で心配でかなわんかったんや・・・そやけどなぁ、ワテもウチのも意地張って仕舞ぉてなぁ・・・手紙とかもろたのに返事もせぇへんで堪忍やでぇ。」

 「ほんまに魂消たがな、芙実子が癌で死ぬやなんて・・・そやからなぁ、最後は、ワテ等に面倒看さして欲しぃのや!拝むさかい!」と、泣いて居られる様でした。

 私は、只々申し訳無いばかりで、声を詰まらせながらも、実家で妻と娘を看て戴く事を御願いして受話器を下ろしました。

 当時、私の実家は、両親と兄夫婦が同居しており、実の処、私は兄や義姉とは折り合いが悪く、両親は仕事で忙しい生活を送って居りましたので、実家を頼る気持ちは在りませんでした。

 妻との話し合いで、京都の実家に頭を下げて、助けて戴く事を提案した際、妻は広島で子供を出産すると言い張りましたが、私は、妻の実家に助けて頂くのが一番良いと思いましたので、義父母に宛てた手紙の文章には、「妻と娘の面倒を看て頂きたい」とは書いて居りませんでしたが、そんな気持ちが見え見えの文面で、義父が、そんな私の気持ちを汲み取ってくださっての、在り難い申し出でした。


 翌日には、主治医に御願いして、紹介状を書いて頂き、会社へは休暇願を提出して、頑なに嫌がる妻を説得して支度を整えて、購入したばかりのタウンエースに荷物を満載して京都に向かったのは、金曜日の早朝の事でした。


 今なら、山陽自動車道が開通し、京滋バイパスも全面開通して居りますので、3時間余りで着きますが、当時は、広島市内から中国自動車へ入り、名神高速を大山崎で降りて、妻の実家の在る宇治市へ着いた頃には昼を過ぎて居りした。

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 宇治公園周辺 朝霧橋


 3年振りに妻の実家の門の前に立つと、あの嫌な記憶が呼び戻されましたが、意を決して呼び鈴を押しますと、家政婦さんが出られて、「お待ちして居りましたので、どうぞお入りください。」と言われましたので、私は娘を抱きかかえて玄関へと進み、妻は私の後ろに着いて参りました。

 挨拶をして玄関の引き戸を開けると、着物姿の義母が正座をされて待って居られました。

 私が敷居を跨ぐのを躊躇して居りますと、

 「土師はん、久し振りどすなぁ・・・話しはウチの人から聞ぃとりますさかいにな。ウチは、アンタ等の事を許した訳やおまへんけど、芙実子が病気や言ぅさかいにな・・・その子ぉが実紗ちゃんやな・・・可愛い子ぉやないかいな、可愛い孫の父親として入って貰うさかい、早ぉ入りよし・・・芙実子も何してんのや、虫が入るし早ぉお入り、自分の家なんやさかいな。」と、淡々とした口調で仰りながらも、既に涙を零しながら妻を招きよせると抱き締め、暫く抱き合ったままで、さめざめと泣いて居られました。

 一頻り泣き終わると、今度は娘を呼び寄せて抱き締め、 「実紗ちゃんか。ウチが、アンタのおばーちゃんやでぇ。」と、この人は、こんなにも優しい声で話す女性なのだと、私を驚かせる様な猫撫で声で、何度も何度も繰り返して話しかけて居られました。

 
 程無く、煎茶の加工場に出て居られた義父も帰宅されて、「孫は茶の間の宝や!」と仰りながら、義母と孫の気の引き合いをして、妻に叱られて居りました。


 
 翌日、ドライブインのオーナーの釣友の、医院長先生に紹介して戴いた病院へ診察に行き、そのまま1週間ほど検査入院する事に成りました。

 その頃は未だ、何処に病気が在るのだろうかと疑って仕舞う程に、妻は元気でした。

 しかし、妻が広島に帰る事は二度と在りませんでした。


 日曜日の朝、入院中の妻を見舞った後、病院の玄関先で、義父母と娘に見送られながら、広島に戻って行ったのでした。・・・アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-02-24 22:06 | 想い出
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 シーナ&ロケッツ


 前回の記事でも触れましたが、シーナが、子宮頸癌の為に亡くなったと言う知らせを聞いた時、妻の事が想い出されました。

 妻が若くして亡くなった事は、昨年の12月26日の記事で触れましたが、妻の死因も子宮頸癌でしたから、身につまされる思いがしたのでした。


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 大吉山展望台からの京都市南部方面


 学生時代から御世話に成って居た、ドライブインのオーナーの計らいで、河豚の調理師免許を取得する為に、老舗の料亭で、三年間、修行をさせて頂く事に成った私は、学生時代の憧れだった妻と三年振りに再開し、結婚を前提に交際を始めました。

 付き合い始めたばかりの頃、ロックなどとは無縁だった妻を強引に誘って、シーナ&ロケッツのコンサートに行った事も在りました。


 私は、遣る気と元気百倍で修行し、その甲斐在って、その年の秋に行われた資格試験に合格致しましたが、妻の実家は、京都でも老舗の茶舗で資産家でしたし、妻には妹が一人居りますが、所謂、『いとさん』で、家を継いで行く身の上で、しかも義母は敬虔なクリスチャンで、カトリックの信者の男性と結婚して欲しいと考えられて居た為に、広島の貧乏な漁師の息子で、料理人などと言うヤクザな仕事をしている私と、付き合う事にさえ大反対されて居りました。

 河豚調理師の資格も取り、料理人として遣って行く自信が湧いた私は、妻との交際を認めて戴く様に御願いする為に、妻の実家を訪ねますが、玄関先で散々罵られた挙句に追い返されたのでした。


 当然の結果でした。


 此れは諦めるべきだと考えながら、アパートに帰って居りましたら、ハンドバック一つを下げて妻が訪ねてきて、

 「なっ!広島に逃げよぉ!」と、眼を真っ赤に腫らして、しかし、力強く私を見詰めて言ったのでした。

 もう、そうするしか有りません。

 手早く荷物を纏めると、ポンコツのカローラに積み込んで、ドライブインのオーナーの所へ行って事情を話し、アパートの鍵を渡して後の始末を頼むと、すぐに広島に向かいました。

 イーグルスシナロケのカセットテープを交互にかけながら、車を走らせて居りました。


 若気の至りです・・・沢山の方に不義理を致しました。


 取り敢えず、広島市内にワンルームマンションを借り、実家の仕事を手伝う傍らで、活魚の卸業を営みながら、休日には、友人の営む料理店の手伝いや、知人の整体治療院の手伝いをして、兎に角、金を稼ぐ事に専念して居りました。

 翌年の昭和63年 ( 1988年 ) には娘を授かり、仕事も順調でしたが、無理が祟って体調を崩した為、平成2年に、師の計らいで、広島市の外郭団体に職を得ました。

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 FAMILY DANCING


 就職して間もない頃、妻が、二人目の子供を妊娠して居る事が分かりました。

 しかし、今回は様子が違いました。

 病院から私の職場に電話が在り、妻に告げずに来て欲しいと言うのです・・・こんな時、良い話の筈が在りません。

 幸い、職場の近くでしたので、昼の休憩時間に、病院へ行きましたら、面談室の様な所に通されて、主治医から話を伺いました。

 妻は、かなり進行した子宮頸癌で、転移している可能性が高いので、すぐに入院して手術をする必要があるとの事でした。

 良い話では無いと思っては居りましたが、胎児に何か好く無い状態でも在るのかと考えていた私は、只々、愕然とするばかりで、放心状態で、主治医の話を聞いて居りました。

 職場に帰っても、仕事が手に着く筈も無く、妻に、どの様に話すかと言う事ばかりを考えて居りましたが、良い答えも出ないまま帰宅し、診察予定日は翌週だったのですが、仕事の都合で着いて行けないので、明日、診察に行こうと言って、病院に行く事だけを話して、言い出せない話は先送りにして、茶を濁すしか術が在りませんでした。


 翌朝、私が娘を抱きかかえて、3人で病院に参りました。

 色々な検査をして、結果が出たのは、午後3時を回った頃でした。


 診察室に招かれて、3人で主治医から、検査の結果や、今後の治療方針を、絶望的な気持ちに成りながら聞いて居りましたら、妻が主治医の言葉を遮る様に、

 「先生ぇ!ほんで、手術せなんだら、どのくらい生きられるんですか?」と、切り出しましたので、主治医が、驚いた様な表情を浮かべながらも、「半年」と答えますと、

 「そぉですかぁ・・・話しに成りませんわぁ。なんとか産むまで伸ばして貰わんと・・・。」と、強めの京言葉で言った迫力に押されたのか、主治医が返答に詰まって居ると、

 「うちが、長生きできへん言ぅんは分かりましたしぃ、お腹の子ぉだけでも助けて遣ってくださいなぁ!」と、言いましたら、主治医が、


 「奥さん、まぁ落ち着いて・・・助からないと決まった分けでは在りませんから・・・手術をすれば完治する可能性は充分在ります。私等も全力を尽くしますから、任せて戴けませんか?」と仰いますと、妻が、

 「あきませんわぁ・・・そんなん出来ぃしません!・・・子供を堕して、ちぃとだけ長生きするんやったら、産んで、すぐに死んだ方が益しですわぁ・・・もし、神様が御許しになったかて、うちの信仰が許さへんのんですぅ!」と、言い放ち、暫くの間、決して歩み寄る事の無い、妻と主治医の遣り取りが交わされました。

 私は、むずがる娘を構いながら、何も言えぬまま、二人の遣り取りを聞いて居ました。

 前の日に、主治医から病状の説明を受けた時、妻が、こう言い出す事は、大方予想が出来て居りましたので、妻に、話す事が出来なかったのでした。

 カソリックでは、堕胎をする事は、殺人を犯すのと同じくらい罪深い事で在るとして居りますし、深い信仰心を持つ妻が、どちらを選ぶかは明確に分かって居りました。


 二人の遣り取りは、主治医が妻の頑なまでの押しに根負けし、治療方針を他の医師と再検討するので、元々の診察予定日だった、翌週の月曜日に診察に来る事で折り合いが付き、その日の診察を終えました。


 帰り道、車の運転をしながら、黙ったままで居る事が耐えられなかった私は、

 「ほいじゃが・・・頑固で、融通の利かん先生じゃのぉ!」と、私が切り出しましたら、妻が、

 「そぉやなぁ、お医者さんは、あんなんでえぇんとちゃぁぅ・・・患者の言ぅなりに成ってはったら仕事にならんやろしなぁ・・・。」


 「まぁのぉ・・・じゃが、先生も、あんたん事ぉぉ、頑固な患者じゃ言ぅて、絶対に看護婦さんやらと言いよるでぇ!」と、笑いながら言いましたら、「そゃそゃ!」と笑いましたので、後は、堰を切った様に、他愛も無い話をして笑いながら、マンションに帰ったのでした。・・・ アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-02-21 20:58 | 想い出
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 シーナ&ロケッツ



 2月15日の未明、ブログの記事を編集して居た私に、深夜のニュース番組が、信じたくない訃報を齎しました。

 日本を代表するロックバンド 「シーナ&ロケッツ」 のボーカル、シーナ ( 鮎川悦子・61歳 ) が14日、入院先の都内の病院で、子宮頸癌のため亡くなったと言う知らせでした。

 私は、呆然として仕舞い、固まったまま画面を見て居ましたが、すぐに別の話題に移って仕舞いましたので、ネットを検索すると、ニュースやツイッターでは、その話題で賑わって居ました。

 去年の夏に、シーナが体調を崩した為に、コンサートが中止に成った事を知って、心配して居ましたが、9月に、日々谷野外音楽堂で行われたシナロケの35周年ライブに出演していたので、安心して居りました。

 編集を終えて居た、ブログの記事に埋め込んだ曲を差し替えて、最初のヒット曲で在る、ユーメイドリーム と、生前の、最後のシングル曲と成った、太陽のバカンスの2曲を埋め込みました。


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 涙のハイウェイ


 私は、高校生の頃から、シナロケのファンで、シーナの夫でも在る、ギター&ボーカルの鮎川 誠 氏を、桑名 正博 氏と共に、勝手に兄貴と呼んで敬愛して居りましたし、歌は、それほど上手くは無いけれど、少しハスキーで独特な魅力に溢れるシーナの歌が大好きでした。

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 SHEENA&The ROKKETS  


 大学へ入って京都に住んで居た頃は、人が大勢集まる場所が苦手な私でしたが、シナロケライブコンサートに参加して居ました。

 大阪の会社に就職してからも、東京の伯父の会社を手伝って居た頃も、シナロケコンサートが近くで開かれると聞けば、足を運んで居りました。


 京都の老舗料亭で、河豚調理師の免許を取る為に修行して居た頃、付き合い始めたばかりの妻と初めて行ったのも、シナロケのライブでした。

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 シーナ&ロケット


 今にして想えば、私の人生の中で、いつもシナロケの音楽が在りました。

 早くに逝った私の妻も、子宮頸癌に因って亡くなりました。

 報じられた最後を看取られた様子が、自分の経験と重なり、身につまされる思いがして、涙が溢れて止まりませんでした。

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 シーナ&ロケッツ 



 『シーナ&ロケッツはどうなって仕舞うのだろう?』と、思って居りました。

 ロックバンド DARKSIDE MIRRORS のボーカルをしていた、二人の三女の 鮎川知慧子は、実力派のボーカルでしたが、もし、彼女が復帰して、新メンバーとして、SHEENA&The ROKKETS に加われば、新たな活躍をして呉れるかも知れませんが、もう、ライブで、あの素敵でパワフルな、シーナの歌を聴く事は叶わないのでした。


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 SHEENA&The ROKKETS


 当初、親族のみで行われる予定だった通夜は、多くのファンの思いを汲んだ鮎川氏の厚意により、ファンも参列できるロック葬と言う形式で執り行われました。

 昨日、執り行われた、シーナ、異、鮎川悦子 女史の告別式で、霊柩車を送り出す折、鮎川氏が、

Queen of Rock 'n' Roll !」 と呼び掛けた姿に、心を打たれました。


 今はただ、彼女の冥福を、心から祈るばかりです。・・・ アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-02-20 08:58 | 感じた事

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 早妻汁 ( さつまじる )



 2月3日の記事に、節分の日に、実家では、広島の漁師の郷土料理である、「早妻汁」を作っていたと掲載した処、数少ない、此のブログの一般読者の方から、「私も、よく作りますよ。」とか、「レシピを教えてください。」等のメッセージを戴きました。


 どうも、随分と誤解が御有りの様でして・・・。


 皆さんが仰る「薩摩汁」 とは、薩摩地鶏のブツ切りと野菜を味噌仕立てで煮込んだ鹿児島県を代表する郷土料理でを指して居られる様です。


 私の言う、「早妻汁」とは、焼いた魚の身を解して磨り潰したモノに味噌を加えて混ぜ合わせて、此れを魚の骨を煮出した汁で程好く溶き、此れに細かく刻んだ葱と、金平状に刻んで味付けした蒟蒻を加えて混ぜ合わせ、最後に細目に切った同じ魚の刺身を漬けにしたモノと擂り胡麻を混ぜ込んだ漁師料理の事です。

 此れを、酒の肴としたり、熱い御飯の上に掛けて食べたり致します。

 私の実家では、コノシロ(コハダ)やチヌ(黒鯛)を主に使って料理して居りましたが、鯛や鯵や鰯などを使う場合も在り、基本的には、どんな種類の魚を使っても作れます。

 広島に限らず、愛媛県 や北陸の漁師町にも、「薩摩汁」や「佐妻汁」と呼ばれる同様の料理が在ります。

 「早妻汁」の由来について、母から伝え聞いた話では、作り置きして置くと、早く妻が料理を出せるからだとの事でしたが、昔、鰯網漁から帰って来た男達が、「早妻汁」を肴に酒を飲み、炊き立ての飯に「早妻汁」をぶっ掛けて丼飯を掛け込んで居たのだそうで、忙しい漁師の生活の中から、生まれた、漁師町ならではの料理です。

 「薩摩汁」と書く由来は、薩摩の国(鹿児島県)から伝わった料理だからだそうで、「佐妻汁」と書く由来は、擂鉢で魚の身を磨り潰すには体力が必要な為、「夫が妻を佐けた」からで在ると言われて居ます。

 数人の方から、「レシピを教えてください。」との要望が在りましたし、誤解をされて居る方にも知っておいて戴きたいのですが、漁師料理故に、正確なレシピが在りません。

 元々、私は、料理を作る際、レシピと言うモノを当てにせず、何人前だったら、此れぐらいの魚の分量で、味噌を此のくらいと、醤油を此れぐらい入れて・・・と、言う風に、自分の経験と感覚に基づいた目分量で作ります。

 今、料理請負人として働いて居ります割烹料理店の店主(友人)に頼まれて、「早妻汁」を何回か作って、御客様にお出しし、大変な御好評を戴きました。

 その時は、私が適当な目分量で取った食材の分量を、その都度、若いのが計量して、正式なレシピを作りました。

 私が作った料理とは言え、最早、それは店のレシピですので、御教え出来ませんので、私が部屋で作りながら計量して、レシピらしきモノを作りましたので、参考になさってください。


★ ★ ★ 早妻汁のレシピ ★ ★ ★

★ 材 料 ★

 鯵 (100g)・・・・10尾

 葱 (100g)・・・・1束

 紫蘇の葉 ( 大葉 ) ・・1束

 蒟蒻 (金平用)・・・・1袋

 赤味噌・・・・・・・・70g

 白味噌・・・・・・・・100g

 炒り胡麻・・・・・・・大匙2杯程度

 醤油 ( 漬けダレ用 )・・75cc

 味醂 ( 漬けダレ用 )・・50cc

 酒 ( 漬けダレ用 ) ・・ 50cc

 七味 ( 漬けダレ用 ) ・適量



 以上が、主な食材に成りますが、あくまでも好みの問題ですので、此れを参考にして、各家庭で、嗜好に合ったレシピを御考えください。



★ ★ ★ 料理の手順 ★ ★ ★


 此処からは、写真を参照して戴きながら、私が作った手順に沿って紹介して行きます。

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 小鯵は、10尾仕入れましたが、その内の4尾を、お魚屋さんで三枚に下ろして戴きました。

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 小鯵4尾は、買い物に行ったスパーク御幸の杜店 の、お魚屋さんで、三枚に下ろして戴き、皮も剥いて戴き、皮も内臓以外の粗も持ち帰りました。

 骨抜きで、小骨を丁寧に取り除き、酒の肴にされる場合は、刺身程度の大きさに切り、御飯に掛けて食べる場合は、少し細目に切って、レシピの漬け汁に、1~2時間ほど浸してください。

 漬け汁には、適量の葱や七味の他に、レシピには掲載して居ませんが、適量の大葉・柚子皮・玉葱を細切りにしていれて居ります。

 漬け終えたら汁を切って、別容器に取りますが、汁は、後で蒟蒻を煮るのに使いますので、捨てずにとっておいてください。

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 鯵を焼いて行きますが、余り焦がし過ぎると、苦みが出過ぎ、色も黒っぽく成りますので、軽く焦げ目が着く程度に焼いて下さい。

 魚が大きくて生焼けが心配される場合は、適当な処で焼き網から下ろし、電子レンジで加熱してください。・・・昔は、生焼けが在る場合は、窯で蒸し直して居りました。

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 魚を焼き終えたら、身を剥きますが、冷めてから作業をされる方が簡単です。

 少々の小骨が残るのは、磨り潰すので問題在りませんが、太い骨や、特に、鯛や鯵等の、背びれ等の根元に在る縁側の骨は、堅く鋭いので、注意してください。

 とは言いましても、子供さんが、此れを切っ掛けに、魚嫌いに成られてもいけませんし、小骨の苦手な藤本さんの御主人の様な方も居られますので、かなり手間の掛かる作業ですが、出来るだけ小骨も取り除かれる事を御奨め致します。

 小鯵6尾から、約250gの剥き身が取れました。

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 私は、早妻汁などを作る時は、擂鉢を使います。

 フードプロセッサーなどを使うと、細かく成り過ぎてペースト状に成り、触感や風味に欠けますので、フードプロセッサーなどを使う場合は、それを考慮して時間を調整なさってください。

 魚の皮も使いますが、磨り潰しにくいので、包丁で刻んでから入れてください。

 あくまでも好みの問題ですが、磨り潰し過ぎると好くありませんので、オカラ位のポソポソした感じに成れば十分ですし、逆に、押えて潰したくらいの、ボロボロしたモノも味わい深く、私は好きです。

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 今回は、上の写真の2種類の味噌を使いましたが、私が思いますに、いつも味噌汁に使って居られる味噌を使われるのが、味に馴染みが在って宜しいのではないかと思います。

 甘味が欲しい場合は、白味噌を使い、更に甘味を求めるなら、白味噌の比率を増やしてください。

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  魚を磨り潰し終えたら、味噌を加えて混ぜますが、後で、ドンドン混ぜ合わせますので、この段階では、全体に行き渡る程度に混ぜれば十分です。

 辛すぎて仕舞う場合も御座いますので、後で幾らでも足せますから、この時点では、レシピの3分の2の量に留めて置いた方が無難だと思います。

 何度か自分で作ってみて、自分なりのレシピが確定するまでは、材料を足して行く毎に、味見をしながら作業を進め、薄いと感じても味噌は足さないでください。

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 この時点で、擂鉢の隅に炒り胡麻を入れて軽く磨り潰して、全体に行き渡る程度に軽く混ぜ合わせます。

 好みも在りますので、量は自分で調整し、嫌いなら入れなくても構いません。

 黒胡麻を使うと風味が在って良いのですが、色がドス黒く成りますので、他人様に御裾分けしたりする場合には、御勧め致しません。

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 今回は、手間を省く為に、上の写真の蒟蒻を使いましたが、好みの物を、好みの大きさに切って使われれば良いのですが、御飯に掛けて食べる場合は、細切りの方が良いと思います。

 此の商品は、少し長いので、笊に取って軽く水洗いした後、3cm程度に切り揃え、取っておいた漬け汁で、沸騰してから3分程煮込み、鍋の中で冷ましておき、笊に取って軽く汁気を切ってから擂鉢に入れて、菜箸で万遍無く掻き混ぜました。

 蒟蒻を混ぜ込んで居る写真を撮りましたが、保存するのを忘れて居て、掲載出来ません。・・・何分、不慣れなモノで済みません。

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 身を剥いた残りの骨は、水500ccで、沸騰してから3分ほど、灰汁を取りながら煮出します。

 私の「早妻汁」は、実家の料理を基にして居りますので、固いタイプの早妻汁なので、ゆる目の早妻汁にしたい場合は、1L程の水で煮出してください。

 煮出したら、網で濾して別容器で冷まします。・・・鍋に入れたまま冷ますと、魚の臭味が出ますので、必ず別容器で冷ましてください。

 よく冷ました汁を、蒟蒻を混ぜ合わせた後に少しずつ出し汁を足しながら、好みの固さに成るまで菜箸などを使って掻き混ぜて行きます。

 葱や漬けを入れた後は、強めに掻き混ぜない方が良いので、この時に、最終的な味を決めます。

 大匙1杯程度の、味見としては多めの量を口に含み、好く味わってから、「少し薄いかな?」と感じる程度に抑えておくのが無難です。

 出し汁を足しながら、混ぜ込んで居る写真を、セルフタイマーを使って撮りましたが、上手く撮れておらず掲載出来ません。・・・何分、不慣れで、独り住まいなので済みません。

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 私は、広島産の細目の葱を使いますが、細切りにしてあれば、白葱や根深、或いは、韮を使うのも好いでしょう。

 何よりも、好みの物を使われるのが一番です。

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 葱を投入しますが、此処からは、勢いよく混ぜますと、葱が潰れて仕舞って風味が損なわれますので、菜箸で優しく混ぜるか、シリコンプロクリーナー 等を使って丁寧に混ぜ合わせてください。


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 最後に、漬けを丁寧に混ぜ込むと完成です。

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 これで完成です。

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 熱い、炊き立ての御飯に掛けて食べました。
 
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 焼いた鯵の粗で、味噌汁も作りました。


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 編集の都合上、出来立てを、すぐに食べましたが、作ってから半日ほど経ってからの方が、味が馴染んで美味しいので、朝方に作って、夕食で食べるのが御奨めです。


 今日は、久し振りの完全休養日でしたから、今朝は、摩り下ろした生の山葵を乗せて、熱い出し汁を掛けて食べました。

 昨日食べた時よりも、味が馴染んで、随分と美味しく感じられました。


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 広島の島の景色


 早妻汁は、広島の漁師の家では、何処の家庭でも作られて居た郷土料理です。

 各家々で、特徴が在り、私の実家の様に、汁とは呼び難い、固目のオジヤくらいのモノから、タイ風カレーの様にシャボシャボのモノまで様々でした。

 私の実家の早妻汁が固いタイプだった理由は明白で、漁師仲間の間でも、酒豪として知られて居た父が、酒の肴として好んで作って居たからでした。

 その為、実家では、漬けの切り身の大きさも刺身サイズで、比率も、漬けが2対1くらいの割合で、沢山入った早妻汁でした。

 食材の魚は、主に コノシロ ( コハダ ) を用いる事が多かった為、小骨が多く、この料理法が発達したのだと思われます。

 割烹で作った早妻汁には、鯛を用いたモノと、チヌ(黒鯛)を用いたモノを作りました。

 鯛を用いたモノは、品の良い味と申しますか、十人向きする味で、チヌを用いたモノの方が、味にコクが有り、私には、より美味しく感じられましたが、それ以上に、コノシロを用いたモノの方が、小骨が多く、作る手間も掛かるのですが、子供の頃から食べて居りました味に、馴染みも在る所為も在るのでしょうが、独特の味が在り、皆さんにも、是非一度、作って召し上がって戴きたいと思います。

 実は、態々ブログにレシピを公開する為に、可也の手間と時間を掛けて「早妻汁」を作り、敢えてレシピを公開した理由は、其処に在ります・


 広島県の郷土料理と言うと、「牡蠣の土手鍋」を挙げられる方が多いと思いますが、今、牡蠣の土手鍋と呼ばれる料理は、本来の姿とは程遠く、私は、広島の郷土料理とは考えて居りません。

 三歩譲って、広島県の郷土料理としても、広島の牡蠣が本当に美味しい時期は、3月から4月の初め頃に掛けてで、年中在る訳では在りませんし、東日本大震災以降、不当に値が釣り上げられて、なかなか庶民の食卓に上る機会が少なく成って来ました。

 それに比べると、「早妻汁」は、旬の安価な魚を使って、一年中作る事が出来る料理です。

 一人でも多くの方に作って戴き、「おふくろの味」として伝えて下さればとの思いを込め、今は滅多に見掛ける事の出来なく成った、「あずま」 と共に、「早妻汁」が、広島を代表する郷土料理の一つとして、復権を果たせる日が来る事を願って、普段は自宅で滅多に料理を作らない私ですが、今回は凄く頑張りました。


 もう暫く致しますと、コノシロが産卵期に入り、安価で質の良い物が出回る様に成りますが、昔は、広島の庶民の食卓に上る代表的な魚でしたが、小骨が多く敬遠され、人気の無い魚に成って仕舞って居る事を、とても残念に感じて居ります。


 この時期には、子供の頃、獲れたばかりの、未だ身がピクピク動いて居るコノシロを、父が三枚に下ろして漬けを作り、軒先に七輪を出してコノシロを焼き、私も身を剥く作業を手伝ったり、デンギ ( すりこぎ棒の広島弁 ) カカツ ( 擂鉢の広島弁 ) で剥き身を摩り下ろすのを手伝って、「早妻汁」を大量に作って、近所や親戚の家に御裾分けして居りました。

 
 『やっぱり、あの味にゃぁかなやぁせんよぉのぉ。』と思いながら、独り、部屋で、「早妻汁」の茶漬けを食べて居りました。・・・アジアの片隅より



編集後記 ・・・久し振りに、料理人が書いて居るブログらしい記事を掲載出来ましたが、この記事を何人の方が、最後まで読んでくださって、何人の方が、「早妻汁」 を実際に作り、何人の方が、 「お袋の味」 として伝えて行ってくださるかを思うと、ネガティブな予想しか浮かんで参りません・・・かなり手間の掛かる料理で、それが廃れて仕舞った最大の要因の様に思います・・・けれど、たった一人でも、そう為さってくださる方が居られたら、「世の幸い」 であると感謝致します・・・ アジアの片隅より


おきてがみ

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by asianokatasumiyor | 2015-02-15 18:07 | 料理のレシピ

水を買う時代・最終回

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小学生の登校風景



 私が小学生の頃は、水筒と言えば、遠足や社会見学の時に使う物と決まって居ました。

 後は、精々給食が休みの時に、お茶を入れて持って行った記憶が在るくらいでした。

 しかし、今は違います。


 私の妹の息子(19歳)が、小学校に入学した頃には、水筒を持って行って居りましたから、15年以上前には、水筒に、お茶を入れて登校していたでしょうから、20年以上前から、そんな習慣が定着していたのかも知れません。

 私の記憶では、私が大学生の頃、中学生の間で、暑い時期に、容器にお茶を入れて凍らせ、それを学校に持って行き、給食の頃には丁度良い具合に融けたモノを飲むのが流行って居りましたので、この辺りが流行りの走りだったのかも知れません。



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 古くなった小学校の屋上の貯水タンクの撤去作業  
 

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 新しく設置された貯水タンク


 私が調べた範囲では、小学校に水筒を持って行く習慣は、30年ほど前に、大阪市内の小学校で始まった様です。

 私の個人的な見解で恐縮ですが、恐らく、昭和50年に改正された、建築基準法の改正法規 が大きく関わって居る様に思います。

 詳細は、此方を御覧ください ⇒ 大阪府の広報記事


 建築基準法 の改正により、3階建て以上の規模の大きな施設に対して、受水槽式給水施設 の取り付けが義務化され、それ以降、管理の悪い貯水槽の汚染の為に、学校やマンションの水道水が汚染されて「臭い」「濁る」等の問題が出ている事が、メディアで報じられる様に成りました。

 私自身、昭和61年頃、東京の伯父の建築会社で働いて居た折に、貯水槽の清掃の仕事をした経験が在りますが、当時の流行語の3K そのもので、清掃の為に、水を抜いた貯水槽上部のマンホールから入るのですが、有毒ガスが発生している可能性も有る為、コンプレッサーで予め空気を送り込んで作業に入りますが、現場に依っては耐え難い悪臭を放っているモノや、何処から侵入したのか、小鳥などの死骸が転がっているモノまで在って、「こがいな所の水ぅ飲まされたら、遣れんのぉ。」と、この水を飲んで居る住民の事を気の毒に思いながら、夏は暑さと悪臭に耐え、冬は凍りついた寒風に吹き晒されて、作業を致して居りました。





 スーパーマーケットの水売り場



 数年前、仕事で一週間ほど、関西へ滞在する機会が在りました。

 その折に、大学時代から親交の続く、大阪在住の友人宅に招かれ、夕食を御馳走に成りました。

 「ハッシーは、酒、飲まん様に成ったさかいなぁ・・・あの頃は、よぉ天六 とか新地 とか飲み歩いたのになぁ・・・。」と、言いながら、奥さんが冷蔵庫から取り出して来て呉れた、「お~ぃお茶」 の2Lのペットボトルから、コップにお茶を注いで呉れましたので、私もビールを返盃しながら、

 「ほぉよぉ、懐かしいのぉ・・・ほいじゃが、儂が、缶のお茶を買ぉて飲みよったら、お前が一番先に、くさしゃぁがった ( 馬鹿にして貶した ) よのぉ。」と、笑いながら言いますと、

 「適わんなぁ・・・ハッシーは、何でも詰まらん事を、よぉ覚えとっさけぇなぁ。」と、笑いながら申して居りました。

 友人の話では、琵琶湖の汚染も、下水道の完備や、行政や住民の努力に依って改善され、京都や大阪の水道水も、幾らかマシに成って来たそうですが、特にマンションなどの集合住宅では、浄水器は必需品で、自分達が日頃飲む、お茶や水は、利便性も手伝って、スーパーマーケットで売られている好みの商品を飲んで居るのだと言う事でした。


 

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阿蘇郡南阿蘇村にある湧水池



 日本は、世界有数の水質を誇る、水に恵まれた国です。

 
 それは、アジアの片隅に、南北に細長く伸び、ぽつりと離れた島国で有ると言う、日本独特の気象条件に依る処も大きいでしょう。


 しかし、それ以上に、神代の時代から、太陽や月や、山や川や海や、石や木や小動物にさえ神が宿るとし、深い畏敬の念を抱き、慈しみ守って来てくださった、我々の祖先の恩恵の賜物であると感じて居るのです。


 人には、自然と調和し、他の生き物と協調し合って生きようとする「地の心」と、火を熾し、道具を作って大地を耕し、道具に由って他の生き物を制圧しようとする「火の心」が有ると言われて居ます。

 現代は、「火の心」が優った時代で在るとも言われて居ます。


 私達は、子や孫や曾孫や、無限の未来へ続くべき、血の鎖の継承者達の為にも、先祖が為さって来られた様に、この国を守って行かねば成らないのだと感じ、普通に水を飲める事の在り難さに感謝しながら、水を戴いて居ります。・・・アジアの片隅より




編集後記 ・・・ 昨日は、記事を書き終えようとしていた頃、落雷に因り停電し、書き込んでいた記事の8割が消失し、時間も気力も無く成りました。 下書きはマメに行わないと泣きをみますねぇ。・・・アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-02-13 23:28 | 思った事

水を買う時代5

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 京都 衣笠山  


 夏休みが終わって、秋に成った頃には、すっかり大学生活が板について、友人も増え、友人の勧誘により、サークル活動にも参加 ( 間が無くて滅多に出れませんでした ) したりして、学生らしく成って居りましたが、京都の水には馴染む事が出来ないで居りました。


 アパートでは、ドライブインで戴いた井戸水を使って居りましたが、大学へ行って居る時など、喉が渇くと困りますので、お茶を沸かしたモノを水筒に入れたり、水をそのまま水筒に入れたりして、持って行って居りました。

 今は、小学生が、水筒を下げて通学するのは、普通の光景と成りましたが、学生が、水筒を下げてキャンパス内をウロウロして居る光景は珍しく、奇異に映ったと思います。

 「喉が渇けば、ジュースでも買えば良いだろう。」と、思われるかも知れませんが、苦学生とは言え、ジュース代までケチる心算は無く、当時、古武術の大会の、体重別の試合に出場して居た私は、カロリー制限をする必要が在り、当時、販売されて居た飲料水は、全て糖類が使用されて居りましたので、これを飲む事を控えて居り、私も、水筒を下げてキャンパス内をウロウロする事を、友人達から笑い者にされて居り、少し恥ずかしいとは思いながらも続けていました。


 私の大学は、当時、京都の私立の大学の中で授業料が最も安く、『すさい』(ダサい)と評されて居りましたが、その中でも、一番『すさい』学生だったかも知れません。

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 伊藤園の缶入りウーロン茶




 そんな時、良い物を見付けました。


 スーパーへ買い物に行った際に、お茶で有名な
伊藤園 が、缶入りウーロン茶の試飲販売をしていたのでした。

 売り子のお姉さんの話では、世界初の技術との事で、ウーロン茶 は、当時、人気アイドルだったピンクレディー が使っていると言う事で知名度も人気も上がって居りましたし、昔から、占に付随した知識として、漢方薬の事も学んで居りましたので、痩身の効能 も存じて居り、試飲したら味も好く、料金も安かった為、3箱も箱買いして仕舞いました。


 翌日から、カバンに3本ほど入れて行き、学食で弁当を食べる時に取り出して飲み始めますと、

 「ハッシー ( 学生時代の私の愛称 ) 、何飲んでんの?」と、友人が聞きましたので、

 「これか、きんにょぅ ( 昨日 ) スーパーで売りよったんじゃ・・・缶入りの烏龍茶よ、新製品なんじゃと。」 と言いましたら、

 「えぇぇっ!これ、お茶かぁ?・・・こんなん売っとんや・・・へぇーっ。」と、缶を手に取って、まじまじ見ていますと、別の友人が、

 「茶ぁなんか、わざわざ缶に入れて飲むもんちゃうやろ・・・勿体無いわぁ。」と笑いながら申しますと、周りに居た5~6人も、そうだそうだと言わんばかりに、賛同して笑いました。

 「ハッシーは、おもろいなぁ、いっっも変わった事ばっかりして・・・喋りも変やしなぁ。」と、他の友人も笑いましたので、

 「 何ぃぬかしゃぁがんなら! 広島じゃぁ此れが普通よぉ!・・・カープが優勝したけぇ言ぅて、儂に、あたがりゃぁがって! ( 八つ当たりをして ) 」と、笑いながら言いました。


 とは言いましたが、当時の広島でも、私の様に濃い広島弁を使う若者は居らず、京都の街中で友人と会話をして居りますと、喧嘩をしていると勘違いされる事も屡でした。


 カープ は、前の年の79年に、江夏の21球 として知られる近鉄バファローズ との死闘を制して、悲願の日本一を達成し、この年の日本シリーズも連覇 したばかりの全盛期 で、あの頃、私は上機嫌で過して居りました。・・・ アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-02-11 23:24 | 想い出

水を買う時代4

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桂川を渡す渡月橋


 桂川 は、京都市左京区広河原と、南丹市 美山町佐々里の境に位置する、佐々里峠に源を発し、京都市右京区京北地区の流域にかけては、上桂川(かみかつらがわ)、南丹市園部地区に入ると桂川、南丹市八木地区から亀岡市 にかけては大堰川(おおいがわ)、亀岡市保津町請田から京都市嵐山までは保津川(ほづがわ)と呼び名を変え、嵐山から再び桂川と呼ばれます。

 広島市を流れる、太田川 は、市内に入ると、太田川放水路旧太田川天満川京橋川元安川猿猴川 の、6本の川に分流し、其々別称で呼ばれますが、源流が分流するまで、別称で呼ばれる事は在りません。

 その為、支流は別として、私には、流れている場所によって、同じ川が、別の名前で呼ばれると言う概念が無かった為、当分の間、その事が理解できず、桂川の上流を、バイクでツーリングした時などに、川の名を示す掲示板などを見たり、土地の人に道を尋ねたりする際、随分と戸惑って居りました。

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 鴨川の風景


 
 桂川は、鴨川 と共に、京都の街を流れる代表的な川です。


 この二本の川は、京都外環状線の辺りで合流して桂川と成り、京阪本線の橋本駅の辺りで、木津川宇治川 と合流し淀川 と成り、やがて大阪湾へと流れて行くのでした。


 桂川も鴨川も、街の中心部を流れているにも関わらず、とても美しい川です。

 淀川の上流域に在ると言う事も在りますが、古より、川を愛し、水に対する意識の高い、京都の人々の心の現れだと感じて居ます。

 もし、桂川や鴨川を水源として水道事業を行っていたら、京都の人達は、私が亀岡で飲んだ様な、美味しい水道水を飲む事が出来たでしょう。

 しかし、桂川も鴨川も、水量が多い川では在りませんし、関西一宴を潤せる程の水源とは成り得ません。

 日本一の水源でも在る、琵琶湖を水瓶とする、京都や大阪では、いかなる渇水の年でも、断水が行われた事は無く、人々も産業も、その恩恵を十二分に受けて経済発展を遂げて来ました。

 それは、水道事業を始めた、明治政府の思惑通りだったでしょうし、当時は、琵琶湖の水もきれいで、飲み水に適して居たのだと思います。


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 からふね屋珈琲店  



 学生時代の、お気に入りの珈琲店は、からふね屋珈琲の三条本店 でした。

 珈琲や飲み水に、清水の湧水を使用していて、キリマンジャロが私の好みでした。

 「美味しいモンを作ろう思たら、美味しいモンを食べなあかん。」と、オーナーが仰って、京都の飲食店や喫茶店に、よく連れて行ってくださいました。

 からふね屋にも連れて行って戴いて、私の好みに合って居ましたので、時々、利用させて頂いて居りました。

 どうしても、からふね屋の珈琲の立て方や、ダッチ珈琲の立て方が習いたくて、オーナーが狩猟しかしない冬の時期に、オーナーから許可を戴いて、3か月だけ、からふね屋のアルバイトとして働いた事も在りました。

 オーナーは、鷹揚で太っ腹な方で、「勉強しに行くんやから」と仰って、私が、からふね屋のアルバイトとして働いた時間分を、ドライブインのバイト料として加算して下さいましたので、スキルアップと共に、副収入を得る事が出来、本当に助かりました。

 私が貧しい苦学生だったので、情を掛けてくださったのだと思います。

 とは言え、高校時代に、漁船の乗り子として稼いだお金で買ったバイク にも乗って居ましたし、そもそも、本当に貧乏だったら、大学どころか高校にさえかよえませんから、極貧と言う訳でも無く、実家が経済的に厳しい状況だったのに、我儘を押し通したとも言えますが、『仕送りやらぁしちゃれんが、学校だきゃぁ行っちょけ。』と、両親は毎月、沢山の魚を送って応援して呉れて居りましたし、子供の頃から、必要な物は自分で稼いで手に入れるモノだと考えて居ましたので、特別な事だと感じて居りませんでしたし、友人も沢山出来て、良い学生時代を過ごしました。


 20年ほど前に、広島サティー がオープンした際に、からふね屋の広島店が出店した事が在りました。

 いち早く、その情報を掴んでいた私は、広島サティーのオープン当日に、真っ先に、からふね屋へ行って、珈琲を注文しました。

 水も、毎日、京都から取り寄せているとの事で、私が、京都に居た頃と変わらない味わいに感激しました。

 しかし、4階の子供服売り場の隅に在って、フードコートと変わらない造りに成って居る為、喫茶店としての趣に欠け、「此れじゃと、長ぁ事、持たんじゃろぉのぉ・・・。」と、感じて居りましたら、日毎に客足が減り、残念ながら、1年余りで閉店されました。

 美味しいモノを提供する事と、店が流行ると言う事は、一致しない場合が多い様に思います。


 閉店する、最後の日にも行って、珈琲を戴きながら、沁み沁みと、学生時代の事などを思い出して居りました。・・・アジアの片隅より


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by asianokatasumiyor | 2015-02-10 23:22 | 想い出