占術・三元派北斗流推命術の継承者として、世の中で見聞きし出会った事を、日々綴って参ります。


by 魚のおじさん
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広島弁の想い出 5

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海軍兵学校東生徒館



 全国的に桜が満開となる時節と成りましたが、今日は、好く晴れ渡った、花見日和の一日でした。

 しかし、満開となる週末には、あいにく天気は宜しく無い様で、照々坊主を吊るして願掛けをなさって居られる方も御座いましょうが、私の様に酒も飲まず、賑やかな所が苦手な、出不精な者にとっては、誘われて居る花見の会を欠席する、都合の良い理由が出来たと、ホッとして居る処です。


 無粋と言われれば、その通りですが、桜の木の下で、ドンチャン騒ぎをするのも、それを見聞きしながら付き合うのも、どうもいけません。

 花見が嫌いと言う訳では在りません。

 足を悪くする前は、旧 海軍兵学校 ( 海上自衛隊 第一術科学校 )構内の一般公開に、毎年の様に参加して居りました。


 構内での飲酒は禁止ですから、面倒な酔い丹坊の相手をする事も在りませんし、指定の場所で弁当を持ち込んで食べる事も出来ますし、レストランで食事も出来ますし、売店で、とってもレアなグッズを購入 ( 最近はネット通販をしています ) する事も出来ます。

 構内は清潔に保たれて居りますし、桜も立派で美しく、警備係をされている隊員の方は親切でキビキビされていて、嫌な思いをする事は有りません。・・・私好みの桜の名所です。



 旧海軍兵学校の花見と言うと、忘れられない思い出が在ります。


 花見と行っても、それは、花見から帰ってからの出来事でした。


 結婚した翌年の、昭和63年の3月末の日曜日に、6月が出産予定だった身重の妻と一緒に、旧海軍兵学校へ花見に行ったのでした。


 それは、広島に友人も居らず、身重で引き籠りがちだった妻を外出させてあげたかったのと、フェリーに乗って、海を見せてあげたかったからでした。


 前日までの雨が、嘘の様に晴れ渡ったポカポカ陽気で、波も穏やかで、桜も八分咲きの見頃で、妻も非常に喜びましたので、楽しい思い出を作って帰宅したのでした。



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 帰宅して、リビングで一休みして居りました妻に、「これ、とらげちょってね。」と言って、買って来た御土産の袋を彼女の脇に置いて、私は、日曜日の恒例の、風呂やトイレの掃除に取り掛かりました。


 「とらげる」と言うのは、広島弁で、「片付ける・納める」と言う意味の言葉です。


 当時、私は、魚の卸業をしながら、空いた時間に、友人の料理店の手伝いや、知人の接骨医院の手伝いをしたりして、殆んど休み無しに働いて居りましたので、夕方から夜に掛けて時間の空く日曜日に、風呂やトイレの掃除や、家の中の様々な雑用をする様にして居りました。


 特に、妻は身重でしたので、変に無理をして転んではいけませんので、大抵の家の雑用は、私がする事にして居りました。


 掃除を終えて、リビングに戻りますと、妻は同じ所に座った儘で、お土産も其の儘でした。


 「何なぁ、頼んじょったのに、そのまんまかぁ。やねこいんじゃったら、言ぅて呉れりゃぁ儂が、とらげるんじゃったのに・・・馬鹿じゃのぉ。」と、何の気無しに言った瞬間、妻の表情が豹変して、


 「馬鹿やなんて、親にも言われた事あらへんわ! 何ぃ言ぅてんのか解らへん!・・・もぅ兄さんとは、口きかへん!」と、言い終えると、無言で夕食の支度を始めたのでした。



 関西人・・・特に京都の人に、「馬鹿」と言ってはいけません。


 京都の人間にとって、「馬鹿」と言われる事は、人格を完全否定されて「死ね」と言われるのと同じ重みを持つからです。


 関西に長く住んで居りましたので、そんな事は重々承知して居りましたが、ついつい、特に悪意も無く、思慮も無く、言って仕舞いました。


 後で分かった事ですが、私が普通に使って居る「とらげる」と言う言葉の意味が、妻には通じていなかったのでした。


 それに、「とらげる」と言う言葉を使っているのは、私の知り合いでは私だけですし、もし使って居る方が居られたとしても、戦前生まれくらいの年齢の方に限られると思います。



 妻の機嫌が直る事は無く、私が何を話し掛けても答えず、私だけが話し続け、無言のままで日常生活を続けると言う、妙な生活が暫く続いて居りました。



 柔らかい物腰の女性でしたが、途轍もなく強い意志を持った女性で、自分の信念の儘に生きた女性でした。


 どんな些細な親切や思い遣りにも、感謝の言葉と心を返して呉れる女性でしたが、謝られた事は一度も有りませんでした。



 そんな妻の、頑なな処も好きでした。



 半月余り経った或る朝、


 「なぁ、兄さん!、朝ご飯できたし、早ょぉ食べよぉな。」と、言いながら、私の身体を強く揺すって起こしましたので、ササッと起きて支度をして食卓に着きますと、何事も無かった様に、他愛も無い話をし始めましたので、私も、何事も無かった様に受答えをして居たのでした。



 上の写真は、結婚式の時の記念写真ですが、普段は、口紅さえ付けない女性でしたので、初めて化粧をした妻の姿を見たのでしたが、変に冷たく老けて見えるので、「化粧が似合わん」と思ったのを憶えて居ります。・・・流石の私も、口には出せませんでしたが・・・。



 桜の季節に成りますと、この事を、いつも思い出すのでた。 ・ ・ ・ アジアの片隅より


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by asianokatasumiyor | 2015-03-30 17:51 | 想い出

広島弁の想い出4

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 大東亜戦争海軍戦歿者柔道部員之碑 


 

 呉市の旧海軍墓地(長迫公園)の坂道を右側に上って行った隅に、大東亜戦争海軍戦歿者柔道部員之碑が在ります。


 この碑は、大東亜戦争において戦死した海軍柔道部員の御霊を慰霊する為に、昭和42年に建立されましたが、この碑の建立に尽力されたのが、私が幼少期に柔道を教えて戴いて居りました緒方久人先生でした。



 私の郷里に伝わって居りました武術であるシブカ(渋川一流柔術の略称)を習って居りました伯父が、幼稚園に入園する前の頃の私の怪力振りに驚いて、「この子にゃぁシブカを習わしんさい。」と父に進言し、町内には柔道の道場が無かった為、祖父が呉海軍工廠へ勤務して居た頃から周知の仲で在った、緒方先生が、戦後に成って呉市の自宅で開いて居られた道場に、通う事に成ったのでした。


 もう、50年近くも前の話ですし、幼かったので、記憶は曖昧ですが、週に一度、土曜日の午後から国鉄のバスに乗って、呉市の本通り辺りに在った緒方先生の道場に行って練習をし、バスで帰る事も在りましたが、大抵の場合は、呉の造船所に勤めていた伯父が、車で連れて帰って呉れて居りました。


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 柔道の稽古



 緒方先生の道場では、小学生の高学年からでないと、入門を認めて居られなかった様でしたが、友人で在った祖父の孫で在ると言う事と、伯父が熱心に頼んだ御蔭で、特別に認めてくださった様でした。

 柔道が好きで、自分から道場に通う事を望んだ訳では在りませんでしたが、バスに乗って呉の街に行くだけでも楽しく、道場の方も親切に指導してくださいましたので、すぐに柔道が好きに成り、家や幼稚園の体育館や廊下で、或いは通園中の道路の上でさえ、習った前方回転受け身をして、皆をビックリさせて居りました。

 呉市には、柔道の道場とは別に、ひと月に2度か3度、休みの日に、父の友人の画家の先生の所へ、絵を教わりに行って居りましたので、広島市よりも呉市の方が、幼少期には馴染みが在りました。

 今は斜陽と成って居りますが、当時の呉市は、世界有数の造船の街として隆盛を極め、県都である広島市を凌駕する様な、活気に溢れる街でした。


 その様な日々を過しながら、私の受け身も徐々に柔道らしく成ってきて、柔道の楽しさが分かって来はじめた、昭和43年 ( 1968年 ) の春、小学校に入学し、前回の記事の怪我を負ったのでした。


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狩留家海水浴場



 幸運にも、当時の日本で最高峰の技術を持つ名医が、手術をしてくださいましたので、傷はすぐに治りましたが、リハビリの技術も機器も進んで居りませんでしたし、現代の様に、PTOTが専門的にリハビリを行うのではなく、看護婦さんがDrの指示を受けてパラフィン療法と言うのを行う程度で、一向に好く成らず、足首が固まって稼働せず、足に力が入らず、右足を引き摺りながら歩き、以前の様に走る事は出来ませんでした。


 当然、道場に行く事は有りませんでしたし、もう一生このまま真面に走る事は出来ないのでは無いかと思われましたし、周囲も、そう考えて居りました。



 そんな中で、初めての夏休みを迎えたのでした。



 夏休みと言うのに、海にもプールへも行かず、部屋で本ばかり読む生活を過して居りましたら、伯父さんが海水浴に誘って呉れました。


「足が悪いけぇ泳がれんけぇ・・・」と言って断ったのですが、父も母も連れて行って貰う様に促しますし、伯父さんの事が好きでしたし、強引に誘うモノですから、渋々承諾して行く事に決めたのでした。

 日曜日の朝に、車で伯父さん親子が迎えに来て呉れて、空覚えと申しますか、記憶が曖昧なのですが、呉市に在ります、狩留家海水浴場に連れて行って貰った様に記憶して居ります。



 海水浴場に着きますと、既に、緒方先生の御家族や、門人の方々の御家族が集まって居られまして、私に内緒にして居りましたが、緒方先生を中心とした柔道家の親睦を兼ねた海水浴の会だったのでした。


 伯父や従兄の後ろに隠れる様にして付いて行きますと、先生はすぐに気付かれて、


「久し振りじゃぁないか!・・・足の具合はどがいなかぁ。・・・まぁ、ねき(広島弁・傍)に来てみんさい。」と、大きく鷹揚な声で、私を招かれました。


 伯父に促される様にして、砂浜に敷かれた茣蓙に座って居られた先生の傍に歩み寄りますと、


 「先生、行かん言ぅて渋るんを連れて来ましたけぇ、宜しゅぅ御願いします。」と、伯父が挨拶しますと、先生は、私を茣蓙の上に両足を伸ばして座らせると、先に左足の膝を曲げさせたり足首を回したりした後で、脹脛を支えて右足を持ち上げると、踵を持って足首を曲げながら、


 「酷い傷じゃのぉ・・・よぉ辛抱したのぉ。えぇ具合に縫うてあって、えぇ具合に着いちょるわい。はぁ、走っても柔道をしても、世話は無ぁで。」と、笑いながら仰いました。


 「ほ,ほ,ほいじゃが先生。足に力が入らんし、曲げたら,い,痛とぉて走られんのんです。」と、言いましたら、


 「ほぉか!。そりゃぁこんだけの大怪我ぁして、ギブスをして動かさん様にして固めちょったんじゃけぇ、筋も縮かんで仕舞ぉちょるわぃのぉ。」


 「傷は治っちょるんじゃが、一遍にゃぁ無理じゃけぇ、痛いんを辛抱しぃしぃ、ちぃとずつ動かしてきゃぁ、前たぁ早ぉに走れる様に成るけぇ・・・ほぉじゃ、今は夏休みじゃけぇ、毎日でめぇけぇ道場へ来んさい。柔道の練習をしぃしぃ身体を動かしよりゃぁ、自然と動く様に成るけぇ、そうしんさいよ。」と、仰いました。

 

 緒方久人先生は、、昭和10年10月に行われた第5回全日本選士権大会の専門成年前期の部で準優勝した実力者で、講道館柔道の創始者である嘉納 治五郎の推挙を受け呉鎮守府の柔道教師として赴任され、海軍兵士の心身の鍛錬に寄与され、戦後は、広島だけで無く、中国地方の柔道振興の中心的存在として活躍されて居られましたし、警察や警察予備隊の指導にも寄与され、最終段位は九段を賜わって居られました。


 柔道整復師としての高い技術と経験を有して居られ、接骨医として開業する様な事はなさいませんでしたが、脱臼や骨折など、容易に治療されて居られました。

 実は、伯父は、以前から、緒方先生に怪我の様子を看て頂く様に、両親に勧めて居たのですが、手術をして戴いた大学病院で治療を受けて居りましたし、柔道が出来ないのに、先生に御会いするする事が、辛く切ない事に思われましたので、再三に亘る伯父の申し出を、私が拒否して居たのでした。


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 久し振りに、太陽の光の下で裸になって燥ぎ、念の為に浮き輪を着けて海中で燥ぎ、奥さん達が作ってくださった御馳走を戴きました。


 恒例のスイカ割りでは、私が道場に行った時、よく稽古の相手をして頂いていた、先生の長男の義人兄さんが、ワザと私に割らせ様として、手取り足取りの指示をしてくださった御陰で、割る事に成功しました。・・・ヤラセの反則行為では在りましたが、とても嬉しかったのでした。




 夏休みの間は、一日おきくらいに道場へ通い、リハビリを兼ねた練習を再開したのでした。


 尤も、当時は、リハビリテーションと言う言葉は、一般には普及していませんでしたが・・・。



 先生は、多忙な方でしたし、高齢でも在りましたので、先生から直接、柔道の指導を受けた事は数回しか有りませんでしたが、厳格で在りながら大らかな方で、「ほぉぅか!」「うまいか!」と、語尾に「か」を付ける緒方先生の安芸弁呉弁とも呼ばれ、武人らしい滑舌の良い野太く響きの有る声で、とても威厳が在りました。


 若い師範代の先生や、その頃は柔道に精をだして居られた義人兄さんが、私の練習の指導をしてくださり、緒方先生は、時々、私の怪我の治り具合を看てくださって、運動の仕方や生活の中での心掛けを指導してくださいました。


 御蔭で、怪我の後遺症の具合はメキメキと好く成り、夏休みが終わる頃には、小走りが出来る程までに回復致し、秋の大運動会の頃には、徒競走で一等賞を取れるまでに回復し、餅つきや寒稽古にも参加し、柔道を愛する、元気な少年に成長して居りました。



 手術をしてくださったDrや、家族や、緒方先生をはじめとする道場の方々の御蔭で治った右足ですが、4年前の事故で、右膝関節を粉砕骨折し、再び不自由な足と成り、今度は治りそうには有りません。



 90度しか曲がらなくなった膝小僧を擦りながら、緒方先生の呉弁を思い出して居りました。・・・アジアの片隅より


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by asianokatasumiyor | 2015-03-29 21:03 | 思った事

広島弁の想い出3

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 怪我をした小学校の東門 


 

 私が小学校に入学致したのは、昭和43年 ( 1968年 ) の春の事でした。

 
 

 入学したばかりの或る日の朝、一緒に登校した兄の後を追い駆けて、駆け込んだ校舎の入り口の坂で、何かに躓いて倒れた私は、痛みを感じた右の足首を見てギョッとしました。

 

 右足のアキレス腱の辺りがスッパリと切れて居て、血が噴き出して居たのでした。


 絶叫をあげていると、先に行って居た兄が戻って来て、パニック状態でしたので、どうなったのか能く覚えて居ませんが、救急車で運ばれて2週間ほど入院致しました。


 15針ほど縫う切傷でしたが、アキレス腱が完全に切断されていた為に、見た目以上に重傷でした。


 当時、新校舎が落成したばかりで、工事用の機械や機材が乱雑に校内に放置されて居り、放置されていた裁断用の工具の刃で切ったらしいのです。


 今なら大変な問題ですが、当時は、そう言った管理がずさんで、あの様な事故が起こっても、学校や業者の管理責任を問い質したり、訴訟や裁判をする様な事は致しませんし、自分の不注意で在り、あの様な場合、学校に対して抗議したり、訴訟や裁判をする様な事は、世間体が悪いと考える風潮さえ在りました。・・・田舎だったからかも知れませんが・・・。



 退院してから、「まだ学校に慣れとらんのに休んだら勉強が遅れる」と言うので、母が毎朝、私を学校まで負ぶって行って呉れ、「トイレや雑用に困るじゃろう」と言うので、そのまま付き添って呉れて、授業が終わると、私を負ぶって下校して呉れて居りました。

 ギプスが取れるまでの、一か月ほどの間、毎日、負ぶって登下校して呉れました。


 その頃も、とても気の毒で、在り難く思って居りましたが、PCで調べると、家から学校まで1km近く有り、小1で小柄な方だったとは言え、これだけの道程を負ぶって行って呉れていたのかと思いながら、Googleのストリートビューを使って、同じ道程を辿っていると、色々な事が思い出されて、涙が溢れて止まらなくなりした。



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 妹の学式の時の母の写真



 母に負ぶわれて帰る時、色々な話をしながら帰りました。


 授業の事や、先生の事や、友達の事など・・・母の御蔭で、クラスメイトとも、親しくなれました・・・母は、明るく気さくで、誰とでも親しく成れる女性でしたから、吃音が在ってコミニュケーションをとるのが苦手だった私は、母を介してクラスメートと話をする機会を得て、相手を理解し、自分を知って貰う事が出来ました。


 小さな町ですから、一年生は、30人程のクラスが2クラスで、同じ幼稚園に通って居た園児が、ほぼ、そのまま小学校に進級して居ましたが、幼稚園に通って居た2年間、一度も話をした事が無い生徒が半分以上居たのでした。


 自分では、物凄く気に成って居た吃音も、相手は、自分が思う程は気に成って居ない事が分かって、とても気持ちが軽く成ったのを覚えて居ます。



 「母さん・・・重たいじゃろぉぅ?」と、聞きましたら、


 「ほぉじゃねぇ、赤ん坊の頃よりゃぁのぉ・・・お前が、大きゅぅ成った言ぅ事じゃけぇ、母さんは嬉しぃんよ。」と、優しい声で言いました。


 「ほいじゃが、大けぇ成ったけぇ、しんどいじゃろぉ?」と聞きましたら、



 「そがいな事ぁ有りゃぁせんよぉ・・・母さんは、お前らを育てるのに、やねこい思ぅた事ぁぁ一遍も有りゃぁせんけぇ・・・全然、やねこぉ無いけぇ、心配しんさんな。」


 「ほんまに、やねこぉ無い?」


 「母さんは、力持ちじゃけぇ、やねこぉ無いけぇ。」と、チョッと立ち止まって私を背負い直し、また歩き出して、色々な話しをしながら帰って行きました。


 「やねこい」とは、広島弁で、辛い・しんどい等の意味に使われますが、他にも、「難しい」「厳しい」「執拗である」「ややこしい」等の意味が在り、余り良い意味に使われる言葉では在りませんが、この時から、何故か優しく温かな響きと、心根を秘めた言葉の様に感じられ、好きな広島弁の一つに成りました。


 上の写真は、妹が小学校に入学した頃の母の写真ですから、35歳くらいだと思いますが、結婚前は、40kg無かった母は、子供を産む毎に体重が増え続け、此の頃がピークで75kg有りましたので、ほぼ2倍の体重に成って居りました。


 この写真を観た妻が、「お兄さんが女装したみたいに、そっくりや。」と、言って笑って居りましたが、今、見比べてみますと、若い頃の私が能く似て居ると思います。


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 上の写真は、結婚したばかりの母(20歳)の写真ですが、小柄な女性でしたので、40kg無かったと言う話も頷けます。


 或る時、父が、「儂ゃぁ、漁師やなんかぁせんと、豚を飼ゃぁえかった。」と、友人等と酒を飲みながら切り出し、「何でのぉ?」と聞かれると、 「サナエを見てみぃや。よぉ肥えちょろぉが・・・豚を飼ぉとりゃぁ大儲けしちょったのにのぉ。」と、皆を笑わせたのですが、それを聴いて居た母は激怒し、事ある毎に「豚を飼う話」を持ち出されて、ネチネチと甚振られて居りました。


 かと思えば、何某かのテレビ番組に、女優の菅野美穂さんが出演して居るのを見て、「この女の人は、サナエが若い頃によぉ似とるのぉ。」と、真顔で言って居りました。


 
 デリカシーの無い事を言って、妻を傷付けたり、記憶の中で、妻を美化したりするのは、父からの遺伝の所為なのかも知れません。


 アルバムを開きながら、亡くなられた人ばかりに成って仕舞った事に気付き、寂しい気持ちに成って居りました。・・・アジアの片隅より


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by asianokatasumiyor | 2015-03-28 05:52 | 思った事

広島弁の想い出2

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 アンガールズの「元就。」



 TBS系の広島の地方局で在る、RCCテレビで放送中の「元就。」と言う番組でMCを務めるアンガールズが、食レポをする際、食べた感想を表現する、お決まりのセリフが在ります。

  
「美・味・い・で・が・ん・す!」と、田中氏が雄叫びを上げ、「美味いでがんす。」と、山根氏が普通にコメントすると言うモノです。


 「がんす」は、公用語の「~です」に相当する安芸弁(広島弁)の助動詞で、未然形・[がんひょう](~でしょう)、連用形・[がんし]、終止形・[がんす・がんした]、連体形・[がんす]の様な活用を致します。


 以前の記事で、広島弁は、広島市や呉市を中心とした、「安芸弁」と、福山市・尾道市・三原市を中心とした「備後弁」に分かれる事は説明しましたが、「がんす」は、安芸弁語圏だけに視られる特徴で、備後弁語圏では使われません。


 とは言え、「がんす」と言う言葉を、実際に使って居る場面に遭遇する事は、先ず有りません。

 私が高校生の頃くらいまででしたら、年配の女性の方が、「がんす」と言う言い方をされるのを、偶に聞く事は在りましたが、1970年代の話ですし、元号が平成に入ってからは、生で耳にした事は無く、番組の中で、アンガールズの田中氏が、「美味いでがんす。」と言うのを聴いて、本当に懐かしく思いました。

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 魚の行商のオバちゃん



 私が子供の時分には、・・・と、申しますと、半世紀・・・50年程前に成りますが、広島の漁師町には、リヤカーを引いて魚の行商をするオバちゃんが大勢居られました。


 祖母(母の母)が亡くなったのは、私が小学6年生の時でしたが、祖母は病気で入院する間際まで、リヤカーを引いて魚の行商をして居りました。

 漁協が運営する小さな市場で魚を仕入れ、町内や近隣の町へリヤカーを引いて行き、昔から馴染みの常連客を相手に魚を売るのですが、結核の為に早くに夫を亡くし、苦労をされた女性で、誰からも慕われる人情家で、とても働き者でした。

 明るく元気な笑顔で、「お早ぅがんす。」と挨拶をし、「有難ぅがんした。」と、常連さんに御礼を言って居りました。

 「がんす」と言う言葉は、年配の女性がよく使って居りましたし、行商のオバちゃんや御婆ちゃん達の間では、極普通に使われて居た言葉です。

 それは、耳にすると灰汁の強い、「がんす」と言う言葉が、尊敬語や丁寧語として使われる言葉だからでした。


 例えば、「彼方は広島の出身ですか?」と言う質問に答える場合、「ほぉじゃ。」と答えれば、「そうです。」と訳す事に成り、「ほぉでがんす。」と答えれば、「そうで御座います。」と訳す事に成ります。


 映画「仁義なき戦い」の影響で、博多弁河内弁と並んで、荒い男の方言と目されて居る広島弁ですが、丁寧語や尊敬語や謙譲語も在るのでした。

 

「美味いでがんす。」を訳しますと、「美味しゅう御座いました。」と言う、何処かで聞いた御婦人のフレーズと同じに成るのですが、その事を、アンガールズの二人が、分かって居るのか否かに付いては、私にも分かりません。・・・アジアの片隅より


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by asianokatasumiyor | 2015-03-26 17:40 | 日常の風景

広島弁の思い出


 昨日、帰宅してテレビを点けると、何某かの番組が進行中で、アズマックス、異、東 貴博 氏が出演して居ました。


 普段なら、すぐにチャンネルを切り替えて仕舞うのですが、子供の頃から大ファンだった、彼の父で在る、東 八郎 氏の映像が出ましたので、暫く見入って居りました。



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 故 東 八郎 氏



 再現VTRの中で、不遇な幼年期を過された事や、辛い下積み時代や、何よりも家族を大切にする、情の深い方だった事が、多くのエピソードと共に語られました。


 ファンでしたので、大抵の事は存じて居りましたが、下積み時代に、吃音症だった為に苛めに合ったり、苦労されたと言う話は初めて知りました。

 「あぁ、そぉじゃったんかぁ・・・。」と、思いながら、番組を観て居りました。

 実は私は、小学生の頃まで、ドモリ ( 吃音症 ) で、問われても話す事はせず、何でも「ウン」「ウウゥン」で答えて居ましたので、友達と話をするのが苦手で、押並べて人付き合いが苦手でした。

 唯一、私がドモっても優しく相手をしてくださった、近所の老人や年配者の間に入って過ごしたり、図書室で本を読んだり、借りたりする機会が多かった様に思います。

 しかし、小学6年生の時に、私を救って呉れた書物と出会いました。



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 田中 角榮 氏



 史上40人目、第64代・65代の内閣総理大臣として、日中国交正化を実現させ、飛ぶ鳥を落とす勢いだった、田中 榮 氏「自伝 わたくしの少年時代」でした。


 何方かに寄って寄贈されたばかりの本には、氏は、少年時代に、吃音で在ったが、担任の先生から「話すとドモッて仕舞うのに、歌を歌う時にはドモらない」事を指摘され、それ以後、歌 ( 浪曲 ) の練習をしながら、歌う様な調子で話す練習をした処、吃音を克服したエピソードが書かれて在りました。

 私も、此れに習って、漁港の堰堤の先まで行って、大きな声で歌ったり、話をする練習を致しました。


 すると、随分と吃音が改善され、人と会話をしても、言葉に詰まって仕舞う事が、殆んど無く成ったのでした。

 
 とは言え、元々、舌足らずで滑舌も悪かった私は、イの音が発音し辛く、特に、アの音とイの音が続く言葉の発音が苦手でした。


 例えば、アイスクリームとか、カイスイヨク(海水浴)は、アースクリームとか、カースイヨクとしか発音出来ませんでした。

 此れを克服する事は、かなり難しかったのですが、広島弁の訛りには、私の此の発音と同じ様に、イの音を省いたり、弱く発音する傾向が在り、私が普段から頻繁に会話をする、近所の老人や年配者が使って居る、古く濃い広島弁を使って居る分には、全く違和感無く会話が出来る事に気付き、中学校に入学する頃には、喋りでネンダー繰り ( 広島弁・お喋りで御節介焼き ) の少年に変貌して居りました。


 ロッキード事件の中心人物として、政界の影のフィクサーとして、黒い噂の絶えない人物でしたが、私にとっては、吃音症から救ってくださった恩人として、今も感謝して居りますし、善きに付け悪しきに付け、魅力に溢れた圧倒的な個性は、敬愛すべき人物で在ったと感じて居ります。



 仕事上、公用語を使わなければ成らない場面の他は、濃い広島弁で話して居る私は、今では特異な存在に成って仕舞いましたが、流石の田中榮 氏も、地元選挙区の有権者にせがまれて書いた自叙伝が、こんなアジアの片隅の、見知らぬ男の人生に関わる等とは、思いも寄らなかったでしょうが、今も私の書棚に納まり、時折り思い出しては拾い読みをして居ります。・・・アジアの片隅より


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by asianokatasumiyor | 2015-03-25 18:48 | 思った事
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 日曜劇場「流星ワゴン



 私は、テレビは、ニュース番組くらいしか観ませんし、カープとサンフィレッチェの試合観戦の為に、スカパーの契約をしていますが、仕事等の為に、見過ごす事が多いのです。

 後から観る方法も在りますが、結果を知っているテレビ観戦は盛り上がれず、好きでは在りません。

 そんな私ですが、地贔屓 ( じびいき・郷土愛が強い事 ) な私は、「広島」が関連していると、ドラマ等を自然と観て仕舞い、今は、TBSの「流星ワゴン」と、NHKの「マッサン」を録画して観て居ます。

 しかし、折角楽しみにして居た「流星ワゴン」も昨夜で終了し、「マッサン」も今週末で最終話を迎える様です。


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 「流星ワゴン」は、主人公の永田一雄と共に、一雄と同じ年に若返った父親・忠雄(忠さん)が、一緒に過去の旅をする、少しファンタジーめいた地味なストーリーですが、主演の西島秀俊 氏 演じる永田一雄と、香川照之 氏 扮する忠さん異、永田忠雄父息の、ぶつかり合う心の葛藤と、周囲の人間関係の機微が絶妙で、泣かせ処も満載でした。


 

 この事は、1月29日の記事 で触れましたが、香川照之 氏 扮する忠さんの濃い広島弁が印象深く、私の父や伯父や、父の友人達の、若い頃の姿を見ている様で懐かしくも在り、ドラマの中で忠さんが口にする「朋輩」と言う言葉に、父の友人達が、「よぉ、朋輩は居るかいのぉ。」 と、訪ねて来る姿を、思い出して居りました。


 とは言え、私の喋り方は、ドラマの中の忠さんと遜色無い、濃い広島弁ですから、懐かしがると言
うのも変な話ですが、市場へ行っても、辺鄙な島嶼部へ行っても、濃い広島弁を耳にする事は少なく成りました。

 ドラマの中では、広島弁の様に使われている「朋輩」と言う言葉ですが、元々は、「同輩」と同義語で、同い年を示す言葉で、「先輩」や「吾輩」とかの言葉と同様に、明治の頃の文人達が頻繁に使って居た様ですが、次第に使われなくなり、辛うじて、広島では、戦前教育を受けた世代まで使われて居りましたが、私に、「朋輩」と呼べる友人が居なく成って使う事も無く成り、長い間、耳にする事は在りませんでした。


 私がドラマを、1話から最終話まで、欠かさず観た事は滅多に無い事なので、ドラマの最終話の締め括り方への不満も在り、少し寂しく感じて居ります。・・・アジアの片隅より

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 黒田博樹投手(写真:スポーツニッポン


 お楽しみのドラマは終わって仕舞いましたが、新たなドラマが始まります。


 3月27日に、プロ野球が開幕します。


 8年ぶりに広島へ復帰した黒田投手の男気によって、広島の街の話題はカープ一色、綻び掛けている染井吉野の蕾さえ、真っ赤に染まって仕舞いそうな勢いです。

 黒田投手の先発登板が濃厚な、3月29日の正面砂被り席のケットを、数枚入手致しましたので、誰かを誘って観戦する事にして居ります。



 「今年こそ優勝を・・・。」と、期待して居りますが、譬え優勝出来なくとも・・・勝っても負けても・・・今年の最後の試合が終わるまで、応援のし甲斐の在る、素晴らしいプレイを見せて呉れる事を願って居ります。・・・ アジアの片隅より


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by asianokatasumiyor | 2015-03-23 23:51 | 日常

3月一杯で・・・

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 土師ダム周辺の桜



 四国や九州地方で、桜が開花したとのニュースが報じられ、広島でも、今日は、上着を着て歩くと汗ばむ様な温かな陽気で、数日中には、染井吉野の開花宣言が出される模様です。



 春は、卒業や入学・退職や就職など、別れと、新たな出会いの時期で在り、悲しんだり喜んだり、「春が来た」と、言うだけで、何故か湧く涌くして仕舞います。



 以前の記事でも触れましたが、料理請負人として働いて居ります、割烹料理店での仕事を、今月末の28日で一旦終了し、以前の様に、料亭や結婚式場・ホテルや旅館から依頼を受けて、厨房に立たせて頂く生活に戻ります。

 割烹料理店の専属の様に働き始めたのは、昨年の5月からでしたが、高校時代からの友人で在る店主に、「 専門学校を出たばかりの息子を、仕込んで遣って欲しい。」と、頭を下げられ、仕方なく請け負ったのですが、初めは3か月との話が、半年に成り、とうとう一年近く働く事に成りました。


 私は肩書きばかりで、付け焼刃の料理人ですから、料理人として大した事を教える事が出来ませんでしたが、大人し過ぎて対人関係で尻込みして居た若いの ( 店主の息子 ) に、海千山千の連中の巣窟である市場へ行っても、物怖じしない性根を植え付ける事が出来ましたし、料理人や問屋や漁師さん等、若いのが、将来、独り立ちして行く助けと成って呉れるコネクションを作って遣れた事だけが、一年近くを共にした私の成果だと思います。


 寂しい気持ちも在りますが、4月からは客として訪ねる事も出来ますし、何かの機会に依頼をされれば、再び同じ厨房に立つ事も在るでしょうから、哀しむ気持ちは在りません。


 それにも増して、漸く早朝の市場への仕入れの仕事から解放されるのかと思っただけで、自然と頬が綻んで仕舞います。


 朝早くに仕事をする事は、全く苦には成らないのですが、市場の場内を、杖を突いて歩く分けには行きませんので、弱音を吐いた事は在りませんが、実は、随分と無理をして居りましたので、ホッとして居ります。


 料理請負人としての仕事は、主に土・日・祝日に請け負って、月に10日程しか働きませんが、それでも独り身を養うには充分で、在り難い事に、既に御盆までのスケジュールが詰って居りますので、暫くはゆっくりさせて頂く予定です。・・・アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-03-22 21:15 | 日常
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 富士ヶ嶺高原の富士山



 オーム真理教が起こした、地下鉄サリン事件 1995年 (平成7年) から、今日で20年が経つと、メディアで大きく報じられて居ります。


 これ以外にも、1988年(昭和63年)には在家信者死亡事件1989年(平成元年)には男性信者殺害事件坂本堤弁護士一家殺害事件など、数多くの残虐な事件を起こしています。


 オーム真理教や、地下鉄サリン事件に関する事は、メディアが様々な角度から報じるでしょうし、強い興味も持ちませんし、私には語るほどの知識も在りません。



 地下鉄サリン事件を耳にしますと、或る父娘の事が心に浮かぶのでした。



 その父娘の父親とは、私が高校生の頃からの知人で、広島で、被爆の語り部として活動をされて居られた関係で知り合いました。


 娘さんは、私より一つ年上で、広島市内の短大を卒業し、就職されて結婚し、後に御主人の転勤の関係で、東京へ引っ越されて居りました。

 平成6年の夏に、久し振りに御会いする機会が在り、近況を交えながら昔話をして居りましたら、私が行って居た、「子授け整体」に話しが及ぶと、親父さんが非常に興味を持たれまして、「実は、東京に行っちょる娘が、はぁ10年に成るんじゃが、子供が出来んのんよ。不妊治療やなんかもしよるらしぃんじゃが、金が掛かるばっかりで、えぇ事に成らんけぇ止めたらしいんよ。その、アンタが遣りよる言ぅ、子授け整体言ぅんで、何とかならんかいのぉ。」と、仰いまして、丁度、御盆に、夫婦で帰省されると言うので、その機会に、娘さん夫婦に御会いする事に成りました。


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 広島市の花 夾竹桃と平和の子の像



 御盆に、親父さんの家に伺って、娘さん夫婦と御会いして、話を伺いました。



 「子授け整体」で重要な事は、夫も妻も医療機関で検査を受けて、身体の生殖能力に、何の問題も無い場合 ( 月経不順や精子の数が少ないケースは相談を受けます ) のみ相談にあたらせて頂くのですが、御夫婦には、健康上の問題は無いとの事でした。

 それで、歩いたり簡単な屈伸運動をして戴いて、身体の柔軟性や姿勢の善し悪しや、骨盤の歪み等を観たり、相観や体臭や息の臭いを嗅いで、体調の善し悪しや性質を見極めて、各々に合った指導方法を見い出します。

 御夫婦の場合、娘さんの方に、冷え性と、子宮後屈の傾向が見受けられましたので、それを改善する為の体操や呼吸法を伝授し、食事の内容や性生活にも言及します。

 そして、これが最も重要な所なのですが、話を伺うと、お墓参りに行くのは、お盆くらいで、住んで居るマンションには仏壇は無いとの事でした。

 それで、盆と正月と春秋の彼岸に、お墓参りをされる事を奨め、小さく安価な物で良いので、仏壇を備えて、毎朝、お水をあげて先祖の報恩に感謝すると共に、供養をなさる様に申し上げました。


 私は、ただ単に、健康な男女が、排卵日辺りに性行為を繰り返せば、子供を授かる事が出来るとは考えて居りません。


 勿論、聖母マリアやキリストでは無いのですから、それが前提に在ります。

 しかし、其処には、我々が目にする事の出来ないや、先祖から引き継がれてきたが在る様に感じて居ります。

 これは、理屈や化科学では語り尽くせない、長年に亘って携わって参りました経験から、私が感じ得た結論です。


 私が、普段から申して居る言葉の端を捉えれば、怪しい新興宗教や、詐欺紛いの占い師が言って居る事と遜色在りませんので、よく誤解を受けるのですが、私の家は、代々日蓮宗の門徒ですし、土師氏と先祖を同じくする、菅家が祀られて居ります太宰府天満宮の氏子で、兵法として伝えられたも、学問として研鑽を致して居ります。


 お墓や仏壇に手を合わせる時は、「子供を授けてください。」と、願うのでは無く、手を合わせて故人の冥福を祈り、永遠に連なって来た命の鎖を、自分に受け渡してくださった報恩に、心から感謝する様に申し上げました。

 勘違いされて居る方が多いのですが、お墓や仏壇は、祈願をする対象物では無く、祈願をされるのは、神社や寺院で為さってください。


 私は、親父さんの家に三日間続けて通って指導させて頂きまして、御夫婦は大変に喜ばれて、東京に戻られたのでした。


 その甲斐有ってか、「御蔭で妻が妊娠しました。」と、御主人から喜びの報告を戴いたのは、年が明けたばかりの事でした。


 
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 地下鉄サリン事件の現場


 その年の3月20日、地下鉄サリン事件が起きました。


 自宅のテレビで、刻々と変わる、被害の大きさや状況報告が錯綜するのを、漠然とした感じで、見入って居りました。

 分かるのは、「尋常では無い事が起きている」と、言う事だけでした。


 死者13名・重軽傷者は6500名を超え、20年経った今でも、後遺症に苦しむ多くの被害者を出した、日本の犯罪史上で最も凄惨な事件でした。



 親父さんの娘さんが、地下鉄サリン事件に巻き込まれ、流産されたと言う話を人伝に聞いたのは、4月の中頃の事でした。

 3月一杯で会社を退職して、出産の準備に専念するのだと、話して居られた事が、頭を過りました。

 正月休みに、帰省された時、沢山の御土産を抱えて、態々私の所を訪ねて来てくださり、満面の笑みで奥さんが妊娠された事を伝えてくださった御主人の、顔や声が思い出され、辛く、只々辛く、その時、初めて心の底から、「オームが憎い!」と言う、激しい憎悪が湧き上ったのでした。


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 広島城の桜



 5年前の夏、15年振りに親父さんに合う機会が在りました。



 実の処を申しますと、事件以降、顔を合わすのが切なく感じられ、年賀状や暑中見舞いの遣り取りをするだけで、お会いする事を避けて居たのでした。


 お互いに15年分の歳をとりましたが、私は未だ、事故で足が不自由に成る前でしたので、元気溌剌でしたが、親父さんは、何処と無く、あの頃の覇気を失った様に感じられました。

 15年も経てば、歳をとって老けるだけで無く、互いに色々な変化が起こるのは世の常ですし、仕方のない事で、私にも多くの事が在りましたから・・・。


 3年ほど前に奥さんを亡くされて、離婚して広島に戻った娘さんと二人暮らしをされて居られ、ボランティアの原爆の語り部を続けて居られるとの事でした。


「 あののぉ・・・娘が流産した事なんじゃが、アンタも知っちょろぉ・・・。」と、親父さんが、話を切り出されました。

 私が、ウンと頷くと、


 「アンタにゃぁ世話に成ったけぇ、本間の事を知っちょって貰わんにゃぁいけん思うけぇ話すんじゃが、ありゃぁ違うんよ。」

 「事件に合ぉて入院をしたんじゃが、大した事は無ぉて、一週間もせん内に退院出来たんよね。」

 「じゃがのぉ、退院してから、お医者さんに、お腹の子供に影響は出んか言ぅて娘が聞いたら、お医者さんも、前例が無い事じゃけぇ何とも言えん言ぅて言われたんじゃげな。」

 「それで、婿さんと話しぃし合ぉたら、婿さんが、子供に奇形やら障がいが出たら、子供が可愛そうなけぇ言ぅて、堕そぉ言ぅ事に成ったんじゃ。」と、寂しく語られたのでした。

 その後、夫婦の関係は擦れ違ったり衝突する様に成り、娘さんは離婚して広島に戻り、事務員をしながら親父さんと暮らして居るとの事でした。

 そんな親父さんも二年前に亡くなられて、その後、娘さんが、どうされて居られるのかは存じません。


 地下鉄サリン事件は、被害者だけで無く、家族や関係者、多くの企業にも大きな苦しみを負わせ、日本国家の安全神話や信用さえも失墜させた事件でした。


 いったい、どれだけ多くの人が、地獄の様な悲しみや苦しみに貶められ、悲惨な人生を歩まざるを得なく成った事でしょう・・・それが、オーム真理教が犯した、一連の犯罪の実相の様に思います。


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 チュニスの博物館でのテロ


 一昨日の、3月18日に、チュニジアの首都チュニスの博物館で、武装した男等が銃を乱射し、日本人3名を含む外国人観光客など23人が死亡し、日本人3名を含む40人が重軽傷を負うテロが発生しました。


 日本政府は、「現時点で、いずれの組織からも犯行声明が発出されていない。犯人組織についても、引き続き、情報収集に当たる事にしている」との声明を発表して居ましたが、今日、イスラム国と称するテロ組織が、犯行声明を出した様です。


 私の個人の考えとして、国や宗教や背景は大きく異なるものの、宗教と言う旗印の下に、或いは、宗教と言う隠れ蓑を使って、武力を用いて世の中を自分の意の儘に牛耳ろうとする遣り方は、オームも、イスラム国と称するテロ組織も、同じ穴のムジナで在ると視て居ます。



 人の命を尊び、皆を幸福へと導く標で在る筈の宗教を、私利私欲の道具とする彼らの遣り方を許す事は出来ません。


 神なる存在がおわすならば、彼等を、どの様に裁き、どの様な報いと罰を与えるのでしょうか。



『 世界が全体幸福でなければ個人の幸福は有り得ない 』とは、私が心の師として敬愛する、宮澤賢治先生が残された言葉ですが、そんな日が来る事は在るのでしょうか。



 その日が来るまで、どれだけ多くの尊い命が理不尽に奪われ、どれだけ多くの血が無駄に流され、どれだけの痛みと苦しみと悲しみを負わねば成らないのでしょうか。


 失われた命の行方や、産まれいずる筈だった命の行方を想いながら、『どうか安らかに…』と、心から、冥福を祈念して居りました。・・・アジアの片隅より


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by asianokatasumiyor | 2015-03-20 05:24

私の息抜き

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 フタバ図書ギガ宇品店


 先日、年下の知人から、「土師さんは、働き過ぎじゃぁないですか。もう少し、ゆっくりしちゃったらえぇのに・・・。」との指摘を受けました。



 自分では、それ程、働いて居る自覚は無いのですが、言われてみれば、そうかも知れません。

 今、料理請負人として、働いて居ります割烹料理店では、月・木・土曜日は、朝3時から若いのと二人で中央市場に仕入れに行き、仕入れを終えると店で、魚や野菜などの仕込みをしたり、煮物などの時間の掛かる料理を作りながら、9時頃に皆が出て来るのを待ち、昼の営業を終えて、賄食を若いのと作ってから皆と食事をし終え、午後3時~4時頃に帰宅します。

 私が市場に仕入れに行かない日は、9時頃に店に入り、店の方は、午後11時までの営業ですが、予約の御客様の料理を作り終える、午後8時か9時頃に、少し早目に仕事を終えて帰宅します。


 これは、私が路面電車を利用して居る関係と、翌日の早朝に、市場に仕入れに行く為です。

 割烹料理店は、日・祝日が定休日ですが、子授け整体の指導に出向いたり、陽宅風水(家相)や陰宅風水(墓相)の鑑定・指導に出向いたりして居りますし、仕事が早く終わった日にも、夕方から此方に出向く事も多いのでした。

 空いている日・祝日は、大抵の場合、ホテルや結婚式場から依頼を受けて、厨房に立たせて頂いて居りますし、料理サークルの講師として招かれたりして居りますので、完全な休日と言うモノは有りません。

 私はブログの記事の中で、「このブログの数少ない一般読者の方」と、言う言葉を使いますが、私は、「三元会」と申します、占術の顧客の方や子授け整体の顧客の方を中心メンバーとするサークルを主宰して居りまして、その連絡ツールとして、ブログを書いて居ります。

 現在、ホームページを制作中ですが、不慣れで在り、間も無い為に、一向に捗って居りません。

 メインのブログは、gooブログで「アジアの片隅より」と言うタイトルで書いて居りますし、会員の方で、アメブロやエキサイトブログを使って居られる方も居られますので、アメブロで「アジアの片隅より」・ エキサイトブログで「亜細亜の片隅より」と、言うタイトルで、全く同じ記事のブログを書いて居ります。


 部屋に居る時は、陰陽姓名学の鑑定結果や、陽宅風水(家相)や陰宅風水(墓相)の鑑定結果をワープロで作成して印刷し、郵送する作業をしたり、メールやブログを書いたり、他の方のブログを閲覧させて頂いたりして居りまして、後は、掃除に洗濯、風呂に入って寝るだけです。



 特に働き過ぎと思った事は在りませんし、どの仕事も楽しんで遣らせて頂いて居りますので、早朝、市場へ行く事 ( 足が不自由なので、魚河岸の場内を杖無しで歩くのは大変です ) 以外は、辛いと感じた事は在りません。

 たぶん、幼少の頃から、漁業を営んでいる両親の姿を見て育った影響かも知れません。


 漁労と言うモノは、季節や潮の干満や天候に左右されながら、それに逆らわず漁を致しますので、朝も昼も夜も関係無く、それに合わせた漁をするので、一般の方の労働時間帯の様に、定まった時間割は在りません。

 また、いつ天候が悪化するかも知れませんし、魚自体が居なく成るかも知れませんので、潮や天候の好ましい内に、出来るだけ漁を致しますので、普通の時間に家に居ない事が多く、子供の頃は、伯母 ( 母の姉 ) が、私等の面倒を看て呉れて居りました。

 天候の悪い時や、潮の悪い時は、作業場で漁網を編んだり、漁に関わる諸々の作業をしておりましたので、完全な休日と言うモノが無く、父はよく、「漁師は寝るんも仕事の内」と、申して居りました。

 大変な重労働で、ともすれば命を落とす厳しい仕事でしたが、父は、漁を楽しんで遣って居りましたし、漁師仲間からも、「マーちゃんは仕事が趣味じゃのぉ」と、評される様な働き者で、酒豪としても知られ、唯一の楽しみと言えば、パチンコに行く事くらいだったでしょうが、のめり込む事も無く、フィーバーで10箱ほど積んで、連チャンしている時でさえ、「天気が良ぉなった」と、言って止めて帰るほど、漁を優先して居りました。

 働き者だった両親に比べれば、3分の1も働いて居ない様に思います。



 私は、酒も煙草もギャンブルも遣りませんし、チビでデブでハゲの小不細工な、足の不自由な50過ぎのオジサンの相手をして呉れる、奇特で変り者の女性は居られませんし、女性に関わると迷惑ばかり掛けて仕舞う命運に在る様で、関わらないのが賢明の様に思われますし、昔からモテるタイプの男では在りません。

 若い頃は、武道を極めんと精進致して居りましたし、歳を経てからも、後進の指導や審判員も務めさせて戴いて居りました。


 何にでも手を出したい性分ですので、釣りに山登りにスキューバダイビングにキャンプや、ゴルフにスキーの他、幼少の頃から習って居りました書道や油絵や、観劇や映画や展覧会の鑑賞など、多趣味でしたが、歳を経たのと足を悪くしたのを契機にして、観劇や映画や展覧会の鑑賞など以外は、間も無く、出来なく成った事も在り、パッタリ止めて仕舞いました。



 「仕事が趣味」では在りませんが、仕事に身を委ねて追われる事で、孤独を紛らわして居る様にも思います。


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 セガワールド宇品店


 そんな私ですが、最近、ちょっとした息抜きの場所を見付けました。



 私が住んで居るマンションの近所に在り、いつも書籍を購入する、フタバ図書ギガ宇品店に併設された、セガワールド宇品店です。



 ゲームセンターと言うと、子供や若者の遊び場と言うイメージでしたが、最近のゲームセンターが、年配者の社交場に成って居る事が、ニュースなどで報じられて居る事は存じて居りました。


 本を買いに行ったついでに、間が有ったので、ふらりと立ち寄ったのが切っ掛けです。

 若い頃には、UFOキャッチャーの名手として、友人の間で名を馳せて居た私ですが、どんな大きな景品でも、2回か3回で落とせますが、景品には興味も無く、あげる相手も居りませんので致しませんし、以前、取りあぐねて居る人を見掛けたので、良かれと思って落としてあげて居たら、僕も私もと皆から頼まれ、調子に乗って遣って居たら、店員の方から咎められましたので止めました。


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 マリオパーティーくるくるカーニバル


 何も考えず、暇潰しには持って来いの、マリオのコインゲームです。




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 KYORAKUのパチスロAKB48


 いつも遊んでいるのは、スーパーマリオのコインゲームと、KYORAKUのパチスロ、AKB48です。


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 私は、AKB48のファンでは在りませんが、この台で遊ぶのは、プレイして飽きさせない凝った作りに成って居る事と、視力に難が在り、目押しの出来ない私でも、ソコソコ遜色無く遊べると言う処に在ります。

 画像が乱れて居るのは、携帯電話のカメラの画像を通して見ると、赤外線が可視化される為で、テレビのリモコンの電池切れを確認する方法と同じ理屈ですが、この原理を利用して、スロットの目押しを容易にする方法を思い付きましたが、実際のパチンコ屋さんで、これを遣ると叱られるかも知れません。


 同じ機種ですが、実際のパチンコ屋さんで使われている台とは、ROMが変更されていて、設定も甘目にされて居る様で、ソコソコの金額で遊ぶ事が出来ます。

 何万枚貯めても、お金に成る訳でも、景品と交換して貰える訳でも無く、ただ遊ぶだけで、無意味とも言われますが、何も考えず、暇潰しをする時間は、私にとって、良い息抜きに成って居ます。


 上の写真は、神曲ラッシュ選抜ボーナス中に、ナビの中央にミニキャラが出現する、レアな映像で、これが出現すると、ほぼ確定します。


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 で、神曲ラッシュと言う、大当たりに成ります。



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 上の写真は、超絶チームサプライズCOMBOと言う、かなりレアな大当たりで、大量のゲーム数をゲット出来ました。


 この日は土曜日で、私は仕事を終えて、3時過ぎに来店しましたが、子供連れの来店客も多く、賑やかでしたが、夕方6時以降は、中学生以下の入店は禁止されて居りますので、夕刻からは、割と静かに成りました。

 
 私は、夕方か夜しか行く間が無いので、日中に行く事は少ないのですが、「子供の躾がなっちょらんのぉ。」と、つくづく感じます。

 私が子供の時分には、公共の場所や、人の多い場所では、他人の迷惑に成らない様に行動する様に、親や地域の方や学校でも、厳しく躾けられました。

 人の間を縫う様に走り回って騒ぐし、座った椅子は、その儘にして放ったらかして行くし、全部の子供とは言いませんが、大多数が、そんな感じで、注意してもソッポを向いて逃げて行き、仕方なく、私が椅子を直して居る始末です。

 親とゲイセンに来る子供に、そんな子が多いのかどうかは分かりませんが、呆れるばかりです。
 
 私が、もっと呆れて仕舞うのは、赤ん坊や、2、3歳の子供を膝に乗せて、スロットやパチンコを打って居る、父親や母親が、結構、多い事です。

 「こんな等ぁ、もぉちぃたぁマシな所へ連れてっちゃれよ!」と、思いながら見て居ると、呆れるのを通り越して切なく成ります。


 「あの小学生等は、こまい頃、あがぃにして育てられちょったんかのぉ。」と、思ったりもして居ります。

 躾の悪い子供は、常識を弁えない、子供を躾る事の出来ない大人に育つのでしょうか・・・躾の悪い子供が、少数派で在る事を願うばかりです。


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 スロットマシンは、100円玉を入れてプレイするタイプで、排出されたコインは換金出来ませんので、他のコインゲームで使います。

 この日、スロットは絶好調で、8000枚余り獲りました。

 パチンコ屋なら、16万円の換金額に成る処ですが、1円にも成らず、難攻不落のUFOキャッチャーの景品と交換して欲しいと願う客も多い様ですが、法令の関係で出来ない様です。


 スロットで獲得したコインの使い道は、マリオ等のコインゲームに回します。



 ゲーセンに通って居ると、店員の方と顔馴染みに成りますし、隣に座った常連客から声を掛けられ、世間話などして、大勢の方と親しく成りましたが、何処の誰なのか名前さえ知らない方ばかりです。


 パチンコ屋とは違い、金儲けに来ている訳では在りませんから、パチンコ屋の様な、殺気立った表情や殺伐とした雰囲気は在りません。

 誰かがボーナスゲームが当たれば、「よかったねぇ。」と、声を掛けて喜び、ジャックポットが外れれば、「惜しかったのぉ。」と、声を掛けて呉れます。



 こうした、和気藹々ながらも、その場限りの希薄な関係が、人付き合いの苦手な私には、好ましく感じられ、館内放送や機械や人の声で、矢鱈と賑やかな場所ですが、何故か癒されて居るのでした。・・・アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-03-18 07:46 | 日常

嬉しい知らせ

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 宮島の桜の景色


 今日、嬉しい知らせが届きました。


 店の昼休みの休憩時間に、妹からメールが届きました。

 甥が、志望校に合格したので、入学届けを提出する際の、保証人に成って欲しいとのメールでした。

 
 学校の勉強をするのが、好きでは無い性分の為、成績表は軍隊の行進状態 ( 1・2・1・2の繰り返し )・・・まったりした、呑気な性分で、遅刻や忘れ物や宿題などの提出の不備が多く、1年前までは、担任の教諭から、「こんな状態だと、私立さえ、入れる高校は在りません」と、強く言われて居りました。

 甥の合格した工業高校は、名門校でも進学校でも在りませんが、甥の目指す夢の延長線上のスタートラインです。
 
 将来に、確固たる夢も無く、周囲からの期待に応える為に試験の為の勉強を続けて、一流と称される名門進学校に合格した中学生よりも、高い価値が在ると思います。


 「志望校合格」と言う結果よりも、それを手にするまでの、強い決意と、積み重ねて来た努力を、心から褒め称えてあげたいと思います。・・・アジアの片隅より

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by asianokatasumiyor | 2015-03-13 19:04 | 日常