占術・三元派北斗流推命術の継承者として、世の中で見聞きし出会った事を、日々綴って参ります。


by 魚のおじさん
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初めまして

 土師祈昌の娘の実紗です。

 父が昨年の10月に脳血栓で倒れた為に、このブログを中断してから随分になり、多くの読者の方から心配するメール等を戴いて居りましたが、返信する事も叶わず、申し訳ありませんでした。

 幸いにも、父の症状は思ったほど重くなく、若干の後遺症は在るものの、自分で日常生活を送れる程に回復し、現在も通院しながらリハビリに励んで居ります。

 今回、父の依頼を受けて、昨年の8月1日から8月6日に掲載した記事を「アーカイブ」として掲載させて戴きます。



 先の戦大から、70年の時を経て、『戦後70年』『被爆から70年』と、言う言葉を、毎日の様に耳に致します。


 広島に生まれ育ち、今なお、広島で暮らす私には、他の方々とは別の、感慨を抱いて居るのかも知れません。



 8月が訪れ、原爆に纏わる過去の一連の記事を、「アーカイブ」として掲載させて戴きます。



【2015年1月23日 掲載記事】【7月20日・予約投稿】




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 音戸の瀬戸



 亡くなった伯父は、小学生の頃から日記を書いて居り、それを読ませて頂きました。



 藁半紙のノートに綴られた日記は、小学生が書いたとは思えない様な、漢字ばかりが連なる、しっかりした文字で書かれており、学校での生活や、大連市 ( 祖父は、海軍に所属して居た頃、大連の基地に配属されて居り、父は、昭和9年に、大連で産まれました ) の街の様子まで、事細かに書かれて居りましたが、模型の飛行機を買って貰い、それを作って遊ぶ内に、帰りが遅くなり、曾祖母に、酷く叱られた事等、子供らしい出来事も書かれて居りました。

 広島県立広島第一中学校に進学してからの日記は、革張りの重厚な手帳に書かれていて、遺品の万年筆 で書かれただろう、その文字は、素晴らしい程の達筆で、日々の生活に添えて、戦況の事や、今、自分の為すべき事や、将来の自分の夢について、熱く語られて有りました。


 そして、亡くなった年の日記帳の最初の見開きに、『亜細亜の片隅より』 と、題された、一片の詩の様な、手記を見付けたのでした。

 此処に、紹介させて頂きます。



亜細亜の片隅より


 亜細亜の片隅より 濱辺に立ちて 皇国を思う

 亜細亜の片隅より 濱辺に立ちて 異国を思う

 亜細亜の片隅より 濱辺に立ちて 朝(あした)を思う

 亜細亜の片隅より 濱辺に立ちて 昨日を思う

 命は何処へ逝く 魂は何処へ行く 此の哀しみは何処へ往く

 斗わねばならぬ 勝たねばならぬ

 勝てば命を奪ふ 親を奪ふ 兄姉を奪ふ 友を奪ふ

 涙を産み 哀しみを産み 怒りを産む

 亜細亜の片隅の濱辺に立ちて

 自らを 戒め 鍛え 努力し

 広く 温かな 手のひらを持って

 いつか手を取り合わん

 いつか語り合わん

 未だ見ぬ 異国の人々よ


 昭和二十年七月二十七日  亜細亜の片隅より



 これが、伯父が記した手記です。



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 これを書いた、10日後に亡くなった分けですが、実は、これを書いた3日前の、7月24日に、呉海軍工廠への空爆 により、大好きだった、二人の姉 ( 次女と三女 ) を同時に失うと言う、痛ましい出来事が有りました。

 次女と三女は、祖父の計らいで、呉海軍工廠で、給仕係として働いており、爆撃を受けた建物の下敷きとなって亡くなられたそうです。

 恐らく、二人の姉の葬儀の日に、書いたものと思われます。

 この年の3月に、尊敬していた叔父が、ビルマで戦死したと言う訃報を受けて、深い悲しみに打ちひしがれ、哀しみも癒えぬうちの、二人の姉の死は、伯父にとって、いかばかりで有ったか、量り知る事は出来ません。

 文面から感じる心の葛藤も、量り知る事は出来ません。

 異国の人と、何を語り合いたかったのでしょうか。


 祖父は、私が生まれる2年前に、亡くなって居りますので、祖父を知りません。

 私が伝え聞いている事と言えば、第一次大戦の、徴兵検査で、5尺9寸(約180㎝)・21貫(約80㎏)の大男だった事と、禿頭のクセに、女性にはマメで、死ぬ間際にも、20歳年下の現妻 ( ゲンサイ・彼女 ) が居たと言う事くらいです。

 二人の娘の死、続け様の息子の死に、どれ程の辛さに襲われたのでしょうか。

 
 今は無くなった風習ですが、当時は、親よりも先に死んだ子供は、「親不孝者とされ、親は、葬儀に立ち会えない決まりとなって居たそうです。

 祖父は、娘の葬儀には一切係われず、葬儀の間、親戚の家で、独り ( 祖母は、私の父が、3歳の時に、12人目の子供を出産する際、難産の末に亡くなって居ました。その後、子沢山の上に乳児を抱えた、祖父の窮状を見かねた上官の計らいに依り、海軍を退役する形で、実家の在る、呉海軍工廠に勤務する事となり、大連市から音戸へ帰ったのでした ) で、過して居たそうです。


 そんな事の直後だったからでしょう、瓦礫の散らばる、煙と埃だらけの道を、誰の手も借りず、息子の遺体を抱きかかえて運んで行きました。


 父の家族は、日中戦争 から、大東亜戦争 の間に、母、長男(海軍少尉でしたが、ミッドウェー海戦 で戦死)、七女(3歳の時に病死)、次女(戦災死)、三女(戦災死)、三男(戦災死)と、六人の家族を失いました。


 今、聞くと、大変な出来事ですが、これが普通でした。


 そう言う時代でした。 

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 昨年末辺りから、戦後70年と、よく言われます。

 戦争の記憶の風化が、もう、随分前から叫ばれています。


 70年前、父の家族を襲った不幸は、日本中に、世界中に、満ち溢れて居た出来事です。

 もう10年もすれば、戦争を体験した人は、殆んど居なくなるでしょうし、20年経てば、全くと言っていい程、居なく成ります。

 その時、この国は、どうなって居るのでしょうか? ・ ・ ・ 新たな戦争体験を、していないと言い切れるでしょうか?


 音戸の伯父さんが言っていた様に、「良い国」には成れないのでしょうか。
 
 私には、アメリカ人の友人は居ますが、アメリカと言う国家は嫌いです・・・しかし、右翼思想者では有りません。

 かと言って、左翼思想者でも有りませんから、高校生平和ゼミナールの活動から離れて行きました。

 亡くなった伯父の日記を読んでから、 も、必要ない事に気付きました。

 それ以来、友人等への手紙の結語の代わりに、アジアの片隅よりと、記す様に成りました。


 今、市役所 の前を通る度に、伯父や祖父や父の事が思われ、辛い気持ちになるのでした。・・・・アジアの片隅より


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# by asianokatasumiyor | 2016-08-03 18:00 | 反核・平和
初めまして

 土師祈昌の娘の実紗です。

 父が昨年の10月に脳血栓で倒れた為に、このブログを中断してから随分になり、多くの読者の方から心配するメール等を戴いて居りましたが、返信する事も叶わず、申し訳ありませんでした。

 幸いにも、父の症状は思ったほど重くなく、若干の後遺症は在るものの、自分で日常生活を送れる程に回復し、現在も通院しながらリハビリに励んで居ります。

 今回、父の依頼を受けて、昨年の8月1日から8月6日に掲載した記事を「アーカイブ」として掲載させて戴きます。


 先の戦大から、70年の時を経て、『戦後70年』『被爆から70年』と、言う言葉を、毎日の様に耳に致します。


 広島に生まれ育ち、今なお、広島で暮らす私には、他の方々とは別の、感慨を抱いて居るのかも知れません。



 8月が訪れ、原爆に纏わる過去の一連の記事を、「アーカイブ」として掲載させて戴きます。



【2015年1月22日 掲載記事】【7月20日・予約投稿】

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 被爆後の御幸橋




 そして、昭和20年(1945年)8月6日、勤労奉仕 で、疎開家屋の解体作業をしていた、市役所付近で被爆し、16歳の夢多き命を奪われました。


 翌日の早朝、祖父や親戚の方に伴われ、伯父を探す為に同行した父達は、祖父の舟で広島へ向かい、元安川を遡って鷹野橋に舟を係留して、伯父の捜索に向ったのでした。


 ほんとうに奇跡の様に ・・・ 何かに誘われる様に ・・・ 折り重なった黒焦げの遺体の中に、伯父を見い出す事が出来たのでした。


 祖父は、慟哭しながら、焼け焦げた丸太の様になった伯父を
帆布 で包んで抱きかかえると、誰の手も借りず、舟まで連れ帰りました。

 手漕ぎが殆んどだった当時、
焼玉エンジン を搭載した祖父の舟の、エンジンの音が無性に大きく聞こえ、泣きながら耳を塞いで、音戸まで帰ったのだと、父が話して呉れました。



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 広島高校生平和ゼミナール の活動の様子



 高校生の頃、広島高校生平和ゼミナール に関わっていた私は、伯父の遺品を見せて頂く為に、墓参りも兼ねて、父の実家を訪ねました。




 倉橋島に在る、小さな漁港の、海沿いの実家には、お盆の度に行くのですが、それ以外で訪ねるのは久し振りでした。

 

 伯父さん ( 次男 ) や伯母さん達と、父や家族の近況を交えながら、亡くなった伯父の写真など拝見して、想い出話を伺いました。



 伯父さんは、写真を見ながら、



 「 こんに (彼) もそうじゃし、ビルマ で死んだ叔父さん ( 広島女子高等師範学校で助教授を務めて居りましたが、徴兵され、ビルマで戦死しました ) も、頭が良ぉて、優しい人じゃったが、皆、死んでしもぉた。」


 
「 ピカ (原子爆弾の俗称)
だけじゃのぉて、戦争で死んだなぁ、頭がえぇ人やら、人柄がえぇ人ばっかりじゃ・・・残ったなぁ、根性が悪りぃ、勉強も、ほろくに出来ん、儂等みたぁな、働くしか能が無ぁぁろくでも無ぁモンばっかりよ!」


 「こがいな事じゃぁけぇ、日本が、えぇ国に成るわきゃぁ無ぁよのぉ! ・ ・ ・ 小ずるい事ぉして、わら (自分達) だけが、生き延びゃぁがった政治家と、皆を殺しゃぁげた進駐軍 の奴らが、法律 ぅ作って、戦争に負けた後のドサクサに紛れて、ヤクザ紛いの奴等が、隠匿物資 やら、金片景気 で大儲けぇして、大企業の社長に収まっちょるんじゃけぇ、えぇ事にゃぁなりゃぁせんよぉのぉ!」と、笑いながら伯父さんが言いました。・・・続く・・・アジアの片隅より


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# by asianokatasumiyor | 2016-08-02 18:00 | 反核・平和


初めまして

 土師祈昌の娘の実紗です。

 父が昨年の10月に脳血栓で倒れた為に、このブログを中断してから随分になり、多くの読者の方から心配するメール等を戴いて居りましたが、返信する事も叶わず、申し訳ありませんでした。

 幸いにも、父の症状は思ったほど重くなく、若干の後遺症は在るものの、自分で日常生活を送れる程に回復し、現在も通院しながらリハビリに励んで居ります。

 今回、父の依頼を受けて、昨年の8月1日から8月6日に掲載した記事を「アーカイブ」として掲載させて戴きます。



 先の戦大から、70年の時を経て、『戦後70年』『被爆から70年』と、言う言葉を、毎日の様に耳に致します。


 広島に生まれ育ち、今なお、広島で暮らす私には、他の方々とは別の、感慨を抱いて居るのかも知れません。



 8月が訪れ、原爆に纏わる過去の一連の記事を、「アーカイブ」として掲載させて戴きます。



【2015年1月21日 掲載記事】【7月20日・予約投稿】

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 雪の原爆ドーム




 昨日、数少ない、このブログの一般読者の方から、


「ブログのタイトルの、『アジアの片隅より』は、吉田拓郎『アジアの片隅で』 からとったものですか?」との、質問が在りました。


 ファンと言う程では在りませんが、、吉田拓郎氏は、ほぼ 広島県人 ( 鹿児島県出身 ) ですし「広島フォーク村」 の発案者であり、好きな曲も沢山在るのですが、これからとったモノでは在りません。



 
 『アジアの片隅より』 は、原爆で亡くなった、伯父の残した手記に依るものです。



 私の父は、11人兄弟 ( 兄4人・姉6人…当時としても多い方でしたが、富国強兵の時代でしたから、今の様に、テレビで取り上げられる程、珍しい事では無かったそうです) の末っ子として生まれ、原爆で亡くなった伯父は、5歳年上の三男に当たります。


 伯父は、大変な秀才だった様で、尋常小学校の3年生の頃には、既に教師から学ぶ事が無くなり、中学校の教科書の他、独逸語や英語も独学で勉強しており、幼少期を過ごした中国語も堪能でした。


 教諭が休みの時には、代わりに教鞭をとっていたとか、学校の式典の際、吃音症 の校長に代わって、教育勅語 を暗唱していた等の、数々の逸話が残って居ます。


 父の実家は、現在の呉市の音戸町に在り、当時、祖父は、海軍を退役し、呉海軍工廠 に勤務しながら、代々の家業である、漁業に従事して居りました。


 祖父の、釣友だった、広島の老舗百貨店・福屋 の創始者である香川源兵衛氏と、マツダ の創業者・松田重次郎氏 との三人で、祖父が舟を出して鯛釣りに出た折に、手伝いの為に同舟していた、伯父の秀才振りに驚嘆し、祖父に、伯父の進路について聞いた処、祖父が、地元の実業学校 に進学させる心算だと話したので、両氏は、『これほど勉強の出来る子には会った事が無い。中学校 に行き、高等学校大学予科 を経て、帝国大学 に進むべき!』と、祖父に進言し、翌年、両氏の計らいに依り、広島県立広島第一中学校(広島県立広島国泰寺高等学校 )に、飛び級で入学致しました。・・・続く・・・ アジアの片隅より


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# by asianokatasumiyor | 2016-08-01 18:00 | 反核・平和